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                 聖餐式の本質。                    

 現代の信仰者は「パンと杯による聖餐式」が、「血の契約」の根拠です。

そしてクリスチャンは、御言葉を学ぶこと聖霊が与えられる霊の段階に引き上げられるので、主イエスの期待に応えて「聖霊を求めなければなりません」。

 

 そのために神様は、ユダヤ教で要求していた肉体での実際の割礼ではなく、新しく「主イエスとの血の契約」を、聖餐式の「パンと杯」で〔象徴として〕行わせているのです。

 → これは「憐れみを感謝する儀式」ではなく、「契約を結ぶ結んだことの再確認」です。

 

ルカ22:19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。

   「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行な

    いなさい。

 

 このパンの意味は、 旧約聖書での「過越しの羊」と同じ役割として、全人類の「罪の贖い」を象徴するからです。従って「4福音書」に書かれた、「最後の晩餐と言われる」この食事の記述は、実際のユダヤ教の「過越しの祭り(金曜日)の日」ではなく、その前日の木曜日の夕食で〔主イエスが主催した、自分自身を羊とする過越しの儀式〕です。

 

 ここで主イエスは、《神様との霊の関係性について、キリストを信じること》が「新しい信仰」であることの宣言をし、彼の権威でユダヤ教の過越しの終わりを告げています。

 

 そして翌金曜日のユダヤ教の過越しの祭り日に、その規定通りに午後3時(羊がほふられる時間)に、十字架の上で息を引き取りました。

 尚、4福音書の記述で、日付の数え方で整合出来ないとみられる箇所がありますが、当時のユダヤ教の祭りの規定,律法,ヘブル語の原意を定規とすれば矛盾となりません。

(「パウロの目からウロコ」シリーズ、第8巻「十字架上のイエスの言葉」、第30篇「「最後の晩餐」と「過越しの食事」の関係」。参照 )。

 

 ここで旧約聖書(律法)の時代が終わり、キリスト(聖霊の働き)の時代に入るのです。

聖餐式で裂かれるパンの意義は、次のコラムパンの意味するもので解説しています。

 

 

主イエスの血が「契約」であることの本人証言。

 

マタ26:27また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この

   杯から飲みなさい。

 26:28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

   (← 「血の契約」を明言しています。)

マル14:23また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲ん

   だ。(← 「血の契約」を実際に交わしました。。)

 14:24イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流される

   ものです。」(← 「血の契約」を明言しています。)

ルカ22:20食事の後、も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される

   わたしの血による新しい契約です。(← 「血の契約」を明言しています。)

 

 3人の福音書記者は揃って、主イエスが「聖別した杯(ぶどう酒)」は、「血の契約」の「(の象徴)」であると、主イエスが言ったことを書いています。そして更にパウロが、「血による契約を交わしたこと」を忘れない為に、「記念として行いなさい。」と指示しています。

 現代クリスチャンが、信仰で受ける聖餐式の杯が「血の契約」の象徴です。

単なる典礼として、形式で終わってはならない重要な「意識付け」なのです。

 

Ⅰコリ 11:23私(パウロ)は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イ

   エスは、渡される夜、パンを取り、

  11:24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わ

   たしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

  11:25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「このは、わたしの血による新しい

   契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

  11:26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、

   主の死(によって「第1~第3の義」にされていること)を告げ知らせるのです。

 

 後の神学解釈によって、パウロがこれを「死=十字架で流した血」だと定義付けたかのような、聖餐式の式辞が読み上げられますが、元来、生きていた主イエスが、「血の契約」と言っているのだから、それを忘れない為の典礼》を第一目的とすべきです。

 主イエスが十字架に付けられたのは、翌日の出来事なので、最後の晩餐での主の発言の意味は、

⇒ 現代の私たちが「象徴として行う血の契約」を示したものです。礼拝典礼として《 信じて行うなら、それは象徴以上にそのクリスチャンにとって実質となります。》

 

 従ってこの杯(血)の意味は、「十字架の死で贖った生命の象徴」であると共に、「血の契約の成立=信仰に対する恵みの確約を保証するものです。

 これこそユダヤ人ばかりでなく、全世界の人々(異邦人)が「信じて救われる」為に、神様が準備した新しい救霊段階(第2の義)です。「イエスの名によるバプテスマ」を受けた後に、聖餐式でパンと杯をいただくことで、クリスチャンとして[血の契約が成立する=心に割礼を受ける]のです。

 

 ここで「心の割礼」と言われて、ユダヤ教の「割礼」を想定してはなりません。

そもそも「割礼」は、霊的に「義となって」神様と契約を結ぶ為に、「血を流した証明」なのであって、人の側の「必須要件」でした。 (「パウロの目からウロコ」シリーズ、第6巻「創世記の正しい霊的理解」、第22篇「割礼の意味」、参照)。

 

 しかしこの神様に対する「必須要件」を、イエス・キリストが全人類の代表者として、一人その身にうけて、十字架上で血を流し、死によって罪を償い、赦され贖われて、「永遠に義の保証を全うしました」。(従って新約聖書時代の今は、誰にとっても割礼は過去の遺物です。)

 

 このイエス・キリストの働きを信じるなら、最後の晩餐でのイエスの言葉通り、「血の契約を結んだ者」と認められ、それが「心の割礼」と表現されるのです。

(尚、割礼を「男性器を清潔に保つため」などと、まことしやかに説明されますが、神様が定めた本来の霊的意味(契約の為に流す血)を、全くとらえていない人間的解釈です。)

 このようにクリスチャンは「血の契約」によって、あなたに血となって内在するイエス・キリストが持つ「天の権能」を、この世で使うべき者になるのです。

そして当然のこと、サタンに勝利する約束が与えられているから、サタンがもたらす苦難に「イエスの名」でチャレンジして勝利し、栄光を神様にかえすのです。

 

 それならば信仰告白として、「私は罪深い取るに足りない者です。」とは口が裂けても言える筈がありません。この言葉は救いを受け取っていないことの告白だからです。

 しかし殆どの日本人はこの原理が分かっておらず、ましてや常識として持ち合わせていません。それは「血の契約」を一般的な契約と同一視しているからです。

 

 この認識では、聖餐式における「杯」の意味についても、ぶどう酒を飲むことが自分の身体にイエスの血を入れる「契約の象徴」だと分かっていないことに繋がります。

 それは式文の朗読で明らかであり、ただ「十字架で流された血」としか言っていないことで、「罪の赦し」のことしか理解しておらず、「血の契約」の観点がすっぽり抜けているのが分かります。

 主イエスは、最後の晩餐の時、杯を持って間違いなく「契約の血」だと宣言していることを、読み取らなくてはなりません。

 

以下の解説は、聖餐式の目的について、現在の典礼解釈(死とその追悼)を正すものです。

 

マタ26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この

   杯から飲みなさい。これはわたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流さ

   れるものです。」

マル14:23また杯を取り、感謝をささげて後、彼らにお与えられた。彼らはみなその杯から飲ん

   だ。(← 血の契約の成立。)

14:24イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるも

   のです。」

ルカ22:20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される

   私の血による新しい契約です。」

 

 ここでは主イエスは未だ死んでいないし、甦ってもいないので、その言葉「罪を赦すために多

くの人のために流されるものです。」の意味は、翌日の「十字架で流される血」の予言と理解出来ます。

 しかし主イエスは、確かに「」を「血の契約」の「」として、その時点で弟子に飲ませています。それならばその流された「血」は、信じる者が「神の義」とされる祝福だと受け取らなくてはなりません。そしてそれは言葉通り、「血の契約」を取り交わした結果です。

 

 これが新約聖書時代の特権なのであって、旧約聖書時代とでは「人の霊の立場」が、月とすっぽん程に違いがあると、自分の「義」を確立していなくてはなりません。

 

 パウロはコリント人への手紙第Ⅰで、11章18節以降で、「主の晩餐」と「聖餐(式)」について言及していますが、現在の「聖餐式の意義」の教理解釈がここからなされているので、「義の観点」から詳しく分析したいのですがが、ここではサマリーを述べるにとどめます。

 

何故、肉体を象徴するパンを食べるのか? 血を象徴する杯を飲むのか? 

 ことさらに主イエスが、聖餐を守るようにと教えたのは、「血の契約」が世の中の常識になっていないからでした。ご自分の身体をパンに例えて語られた時、多くの弟子が去った,と書かれています。← 救霊の真理を捉えた信者のみによって、キリスト教を存立させる為の選別目的です。

 

 この当時から現在までも「血の契約」の理論が理解されていないことが証明されています。

歴史の事実として私たちが知る「十字架の死」は簡単に理解出来ますが、これに対し、言葉のイメージしか持たず、しかもそれが何だか良く知らない「血の契約」について、はっきりと分からせるために「聖餐式」をしなければならないのです。

 それは自分の身体と主イエスとが一体化することを知るためであり、それこそ「血の契約を実体験する為(の象徴・型)なのです。

 これによって、自分の身体にイエス・キリストの血が流れることを実感するのです。

 

 「ふさわしくないままで、」聖餐を受けてはいけないとしているのは、「主イエスと自分が一体不可分の血を共有している事実」を理解していない状態を指摘しているのであって、つまり「血の契約」を理解しているか否かを、自分で吟味しなさいとの教えです。

 教会で信者・不信者を選り分けることを言っているのではない筈であり、この解釈によって対処を更改すべきでしょう。

 

 今、教会で使われている聖餐式の式辞引導は「十字架で死なれたイエス・キリスト」を追悼する目的としか聞こえてきません。それはパウロがⅠコリ11章で、「主の死を告げ知らせるのです」と言っていることの表面しか理解していないからです。

 

  イエス・キリストの働きは、甦られた後の、今に至る「霊の仲介者としての血の契約〔第2の義への手続き〕」こそ覚えられるべきことです。どんな契約も、まずは「生きている者同士」の関係性です。

 従って私たちが杯をいただく時は、天で生きている主イエスが相手でなければなりません。

十字架で死んだ主イエスを懐かしむのは、〔第1の義〕の自己認識レベルなのです。(入信への誘いの福音。)

それならば何故、主が死んだことをことさら知らなければならないのでしょうか?

 

Ⅱコリ:26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるま

   で、主の死を告げ知らせるのです。

 

それには大きく3つの意味があります。

つは、信じる者に聖霊が降っている事実を知る為です。主イエスが「私が死ななければ」と言

 って約束された「助け主」(ヨハ16:7)すなわち聖霊を、今受け取っていることを確信する

 為。(第3の義になっている筈だから。)

つ目は、イエス・キリストとの「共同相続人」であることの再確認。すなわち「神の義」を受

 け取り実行することへの意識付けの為。(天の祝福を当然の権利として受け取る立場。憐れみ

 にすがるのではない。)

つ目の真理として、「血の契約」では契約者の一方が死ぬと、残された他方にとって、死んだ

 者の血が自分に流れているから、この本質によって、自分が「死んだ主イエスに成り代わっ

 て」「主の責任・義務や祝福」を引き継ぎ、地上で実行するのです。

 

 この実証は、ダビデ王が血の契約の兄弟ヨナタンの死後、その子メフィボシェテを自分の王宮に住まわせて、自分の子たちと同じ待遇を与えたことが示しています。

 キリスト教とは神様とクリスチャンとが、「血が混じり合う,いのちをかけた」切っても切れない絆として、「霊の関係性」を確立するのです。

 

 聖餐式はこの血の関係を、身体で体験し理解しなさいと言っているのであって、特に3番目の意義「クリスチャンは死んだ主イエスの成り代わり」だと、自分の生きざまを吟味することなのです。 主イエスの死(十字架)を受け取り、罪の赦しを有り難がっているだけでは、本当に救われたことになりません。

 霊的には「第2の義」であっても自意識が第1の義〔救いの前段階〕の状態でしかないからです。

 

 これで分かる通り、クリスチャンは神の子とされた祝福によって、キリストとの共同相続人であり、法律的な権利・義務としてサタンに向かって「神の義」を主張できるのです。いや、主イエスの分身として、2000年前に主イエスが成した業を、今行わなければなりません。

 

 この「自分に与えられた血の契約の本質(第3の義)」を再認識しなければならないのが、

聖餐式の「」です。しかし今のキリスト教は、この真理を全く分かっていません。

 知らないことはそもそも、願い求められず実行することも出来ません。だから多くの教会は、吟味を「罪の有無を探り出し悔い改めること」と解釈しているのです。

 

 

 ここで再度、「聖餐式」の意味を血の契約から分析すると、聖餐式こそ「主イエスの血が自分の身体に流れていること」の確認作業です。

 しかし今、教会で行われている聖餐式は、クリスチャン会員とそうでない列席者とを分別することが定義になってしまっていて、聖餐を受けることが特権のように扱われていますが、とんでもない人間的解釈です。

 却ってクリスチャンが「神の義」を行っているかどうか自己反省し、契約の義務を果たしているかどうか、生きざまを自分自身に問い直す(吟味の)為のものなのです。

 

Ⅰコリ11:23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡

   される夜、パンを取り、

 11: 24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、

   わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

 11 25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新 い

   契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

 11:26ですから、あなたがたは、このパン(主イエスのからだの象徴)を食べ、この杯を飲む

   たびに、主が(再び)来られるまで、主の死を(示し)告げ知らせるのです。

 11: 27したがって、もし、(クリスチャンとして)ふさわしくない(主の血を受けた者として

   の行いをしない)ままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して

   罪を犯すことになります。(→「血の契約をないがしろにして、自分と一体になった主イ

   エスに逆らっていることになるから。)

 11: 28ですから、(クリスチャンの)ひとりひとりが(神の義を行っているかどうか)自分を

   吟味(反省)して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。(→ 洗礼を受けていない

   列席者が聖餐をしてはならないという教理ではなく、「神の義となっていること」への意

   識付けと反省が目的です。)

 11: 29(クリスチャンなのに自分の身体に宿る主イエスの)みからだをわきまえないで、飲み

   食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

 11:30そのために、あなたがた(クリスチャン)の中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者

   が大ぜいいます。(→ もとより主を信じない者は、主からの祝福を否定しているから、

   この警告は必要ない。パウロのこの手紙は、コリントにいる信者たちの中にいる、愛餐に

   ふさわしくない自称クリスチャンに向けられたものです。)

 11:31しかし、もし私たちが自分をさばく(自分の欠点や状態を認識し、深く反省する)

   ら、(神によって)さばかれることはありません。

 

 教会全体も、日本のクリスチャンと呼ばれる人々も、もう一度、「血の契約」を交わしたことによって「主イエスの血が自分の身体に流れている」ことを、心から吟味され、「主イエスの遺言」を体現されることを願うものです。

 

 

聖餐式式辞の見直し。

現在のプロテスタント教派教会での、式辞を引用します。

 

愛する兄弟姉妹、我ら救い主キリストの定めたまいし聖餐にあずからんとす。キリストは我らの罪のために十字架にかかり、その死と苦しみとをもって世をあがない、いさおなき我らを招きて神の子となし、限りなき命を贖うことを約したまえり。

 かく主キリストは我らを愛してその量るべからざる恵みを常にわれらに記憶せしめんがためにこの聖餐を定めたまえり。

 

 非常に簡潔にまとめられた式辞ですが、この文章を正しいものとして鵜呑みに受け入れていると、聖餐式の意義を確実に掴めず、自分の信仰の確信に至らない恐れがあります。

 

「キリストは我らの罪のために十字架にかかり、その死と苦しみとをもって世をあがない、いさおなき我らを招きて神の子となし、限りなき命を贖うことを約したまえり。」

 

いさおなき我ら招いて神の子にしているのではありません

 式辞によれば、「いさおなき我らを招きて神の子となし、」とありますが、それは「招かれる以前が〔いさおなき我らだった〕のであって、それは不信者のことですが、続いて「神の子とされる」とあるのが、間違いの原因です。

 この一文では、キリストの「世(人類)の救い=〔神の意志(原罪の赦し)〕①」と、「個人の信仰(自由意志)②」との2段階をごっちゃにして、「キリストの十字架の死が人を救う(永遠のいのちを与える)」と、「信仰を抜かして」直接的に関連づけているから、霊的にあり得ない本質的間違いなのです。

 だから「罪人の意識のまま、前に出て、パンと杯を受ける」と、誤解してしまうのです。

そして自分が聖餐にふさわしいかどうかを吟味するのが、「罪の悔い改め」のことだと結び付けてしまいます。そしてこの解釈から、未信者は聖餐を受けてはならないとする差別化になるのです。

 

 神様の正義によれば、「いさおなき(手柄もなく取るに足りない)者」を、《キリストの十字架》で「神の子として義と認める」ことは有り得ません。そして「いさおなき我」と告白する自意識をもつ人が、神様から「正しく評価される」ことは決してないのです。

 信仰によらなければ、[義とされること]はありません

 

 救いの手順として、当初にはあなたは「いさおなき者」でしたが、「信じて救われた後」には、神様はあなたが「義とされた神の子」であると認めて、「その通りに扱ってくださる」のだから、あなたの自己認識と告白を「私は神の義になっている」と〔改めなければなりません〕。

 

**十字架「全人類の罪の赦し」は「第1の義」です。だからその「十字架(罪の赦し)は、堅固な信仰の根拠[すなわち神様との霊的関係性の確立」にはなり得ません。

 原罪を赦された」ことの意義(第1の義)は、「憐れみによって受けた救い」であって、だから「罪の赦しを信じています。」と告白し(第2の義であっ)ても、その言葉には「神の子とされる霊的保証」はないのです。**

 

 何を言いたいのかと言うと、「あなたは〔信仰によって既に〕罪を赦され、「義」とされている者」なのだから、自意識を「罪を悔い改めること(旧約聖書)」から「神の義を行う清められた者(新約聖書)」に、変えなければならないことであり、そうなっていないクリスチャンの、「ふさわしくない自意識を吟味するのが、「聖餐式」なのです。

 

 神様に対して「罪がない者」に、[神様がして下さっている]のだから、その事実を踏まえて、神様との関係性を確立する為に、聖餐式で「血の契約」を行うのです。

「罪の悔い改めを再び教え直す」ことが第一ではありません。

 

 現在、各教会で行われている聖餐式の「式辞文」の、書かれた言葉の意味合いが、その聖餐を受けるクリスチャンに正しく伝わっているとは感じられません。

 

 それは、「十字架の死」という言葉で、「罪の赦し」しか思い浮かばず、その為に「既にない

罪」を掘り返してうなだれたり、悔い改めに精神集中するのが、「吟味しふさわしくなる」ことだとミスリードされ、自分の「義=霊的立場」を正しく理解していないからです。

聖餐式の式辞として、義の視点でまとめ直すならば、

「死から甦って昇天されたからだと、その権威を象徴するパンを、自分のからだとし、また、「血の契約の血を象徴する杯」によって、自分がイエス・キリストと「血の契約」を交わした者であり、そして今、主の代行者であることを、はっきり告知・宣言することが目的です。

 

 ですから式辞として正しくは、「我ら信じた者を神の子となし、限りなき命を贖うことを約したまえり。」とする「神様の保証」です。だから、それを素直(本来の謙遜)に受け取って、「神の子とされたことを感謝する」のです。これが「信仰の根拠」です。

 

 

聖餐式式辞の提案。

 愛する兄弟姉妹、私たちは今、主イエス・キリストの定められた聖餐を、行おうとしています。主イエスは、世の罪として私たちに負わされていた、「アダムの原罪」を取り去る為に、十字架にかかり、その死によって、全人類の原罪を贖い、私たちの、神様に対する霊の立場を回復して下さいました。

 更には、イエス・キリストによる「救いを信じる私たちを、「血の契約」によって「神の子」として「義に認めて」くださり、「永遠のいのちを持つ者」の保証を与えて下さっています。

 この信仰による祝福が、「血の契約である」ことを、私たちがしっかりと理解する為に、今こ

こで、主が制定された「パンと杯」を頂きます。 我が主イエス・キリストとの血の契約によって、弟妹とされた祝福を覚えて、聖餐を行います。

 

 

 聖餐式によって、天から戴いた霊の賜物を再確認し、またそれらの権威を「イエスの名」として用いることで、サタンと悪霊に対して圧倒的な勝利を得る者にされたことを感謝するのです。

 使徒パウロが、「さばかれないように自分を吟味しなさい。」と教えている通り、キリスト教の信仰が、主イエスとの「血と肉の一体化」であり、「血の契約の祝福が「霊の権威」であり、それを「義務として行うこと」であると、パンと杯によって確かに理解しなければなりません。

 

その頻度は?

 聖餐式が「神様との関係性の自己吟味・血の契約の再認識」であれば、典礼としての頻度は、どのくらいが適正なのでしょうか?

 本来の教理的回数は、毎週の礼拝で行われるのが筋として正しいでしょう。しかし人間の感覚・感性として、あまりに頻度が多いとかえって「その重要性への認識」が薄れてしまいます。それこそ単なる儀式の行いに陥ります。(行うことが目的化してしまう。)

 

 再認識を目的とするならば、それは当然に「忘れかけた時に思い出させる」のが最適です。

その頻度は「毎月1回」位がちょうど良いかと思われます。

 

 

最後に、

 血の契約を知り、聖餐式の意義を自らの反省の機会と理解すれば、信仰の決心を促す意味に於いて、洗礼を受けていなくとも真摯な求道者であれば、聖餐にあずかることは間違っていないと考えます。(しかし厳重な霊的見極めが必要です。)

 

 「救いを求める人に門戸を開き続ける教会」として、日曜日に教会に足を運び、説教を聞いた人に対して、語られたみことばが事実であると証明をしなくてはなりません。その時、聖餐式で差別し、パンと杯にあずからせないことが、その目的に合致するでしょうか?

 求道の初っ端から区別ある処遇を受けたら、普通の人情として、「そんな扱いをされるならもう行かないよ。」と、離れて行くでしょう。

 

 教会というキリストのからだはひとつであり、愛と秩序で満たされているのだから、その御言葉の体現として、求道者であっても「血の契約の象徴」にあずからせて、より早くキリスト教の真理を理解させ、一刻も早く信じる決心に至らせるのが、神様・主イエスも望んでいることではないでしょうか。

 「象徴」は象徴でしかないのであって、それをどのように「受け取る」のかは、ひとりひとりの信仰によることです。だから聖餐式は、教会に集う人々全員に機会が与えられるべきです。

 

 その霊的根拠は、世の人全てが既に第1の義にされているからです。霊の関係性を構築してほしいと願っている神様が、あらゆるチャンスを準備し、心を向けさせる転機にすると考えれば、「救いに招く側の人間」がその道を閉ざすのは、神様の意志に逆らうことになります。

 

 例え、聖餐にあずかった未信者が去ったとしても、それで「聖餐式」が汚される訳ではありません。聖餐式は「パンと杯」という「象徴による手続き儀式」であって、「救いそのもの」ではないからです。

 ですから「主のみからだを汚すことになる」という警告は、未信者へのものではなく、クリスチャンと自称する者が「血の契約の本質」を知らないことへの、自身の「吟味」の為なのです。

 

 パンによって「(罪の贖いを超えて)主イエスと一体となり、永遠のいのちを持った」身体で

あることを知り、杯によって「霊の権能・賜物を授かっている」者だと、自意識を「神の義」にすることなのです。

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