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    信仰の根拠はあなたに流れるイエスの血

 あなたの救い主イエス・キリストは今、どこに居るとあなたは認識していますか?

聖書には「天で神の右に座している」と書かれています。だからあなたもそのように教えられて来て、そう答えたと思います。キリスト教一般教理として、全く正しい解釈です。

  私たちは、甦った主イエスが「天で生きている」ことを信じています。 

 

 そうすると、「救いの実現についての霊の関係性」では、イエス・キリストとあなたは、「天」と「地」とに離れて存在しているから、強固な霊的連帯者として「自分が主イエスに認められているかどうか」、極めて不確実な推測と願望しか持てないことになります。

 何故ならそれは、2者の関係性なのに、具体的な主イエスの介入の証拠がなく、自分の気持ちのあり方でしかないからです。

そしてそれは「信じています。」という言葉にしがみつくだけの心許なさです。

 「それなら何を信じているの?」と問われて、聞かされていた入信の福音を答えても、更にその論理的根拠を、あなた個人がサタンに勝利する「法律的な権威あるもの」としての説明ができません。

「十字架による罪の赦しと贖い」は、神様のアガパ愛による「全人類への憐れみとして一方的な取り扱い」の結果だから、信じる者個人の側からの根拠の掴みようがないからです。

 その根本を探ると、《「十字架の働き」の霊的目的が、入信へ誘う福音》なのであって、まだ神様・主イエスとの個人的な霊的関係性が成立していない」からです。

 これが間違っているという意味ではありません。ただ、信じるという意志行為において、

イエス・キリストという「信仰の基盤」が弱々しく、論理性による関係構築が強固な確信になっていないことです。それが「憐れみにすがる」という告白です。

 以下のコメントは、クリスチャンが神の子として霊的成長する為の、ステップアップガイドです。「信じる」ことの内容を第3の義にすることです。

 

自分の信仰を堅固なものにする為には、自分が確信できる「神様の側からの証印」が必要です。

(ジャン・カルヴァンはその根拠を「神の選び」に求めましたが、その行き着く先は運命論 なので、神様との「霊の関係性」として正しくありません。神様は人の自由意志を徹底的に尊重しているからです。操り人形のように人を支配し、それを予定することはありません。)

   

   人が生きている間は、その霊は天に昇れないので、主イエスと「霊の交わり」をして、主イエスからの証印を得ることが出来ません。それでは何が、あなたの霊における「信仰の根拠」なのでしょうか? 神様の「憐れみ」が根拠ですか?

   あなたが信仰に入った時の、救いの解釈は「十字架による罪の赦し」でした。これは福音すなわち「世に対する招き」として、入信時には全く正しい教理であり、通底する真理です。

 従ってあなたの信仰は、に向かって「憐れみを求める宗教」として始まり、イエス・キリストに「頼りすがる教理」と、その態度になります。これが福音の本質(第1の義+α の限界)であって、信仰初心者の霊的レベル(第2の義)です。

-→ 神様は「今のあなたの霊性をそのまま受け入れています。しかし、大いなる天の祝福を受け取らせたく、更なる成長を願ってもいます。ですからその意志をお伝えしています。

 

 この霊的レベルでは、マルコ16:15~16節の主イエスの指示(み言葉に伴うしるしとして奇跡を顕現させること)を、実現するのはきわめて困難です。頼りすがるのを信仰としているなら、それは霊的幼児であって、まだ「聖霊のバプテスマ」を授かっていません。

    それ故にあなたの願望が叶えられること(祈りとその結果)について、《 絶対的確信が得られない現実 》に直面します。そしてそれは当然に、み言葉の約束の成就に疑いを生じさせます。

 何故なら「十字架による罪の赦し」を信じるだけでは、《聖霊の働きを実現する「神の子とされた」霊的立場に至っていない》からです。

 

 しかし聖書は、「信じる者には聖霊が授けられる。」としていて、これこそ「霊的関係性」の実現にほかなりませんが、それなのにその証拠となるものが見つかりません。

 聖霊を受けた証拠としての「異言」は、確かに霊の交わりですが、その異言自体は結果として顕れるものであって、「神様への信仰の絶対的根拠ではないからです。

 従って、うやむやとした状態の教理解釈に留まり続ける結果になります。

 

それでは何が、あなたの霊における「信仰の根拠神様の保証」なのでしょうか

そしてそれを手に入れて〔生きている主イエスの臨在を実感するには、どうすれば良いのでしょうか 

 聖書の主イエスの言葉は、あなたとの個人的な関係性を保証しています。それならあなたの主イエスは、どこにいてその約束を実行してくれるのでしょうか? 天からの見守り(リモート)で次の約束が実現できると信じますか

 

ヨハ6:37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたし

   のところに来る者を、わたしは決して捨てません

ヨハ14:18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのと

   ころに戻って来るのです。

14:20その日には、わたしが父におり、あなた(がた)がわたしにおりわたしがあなた

   (がた)におることが、あなた(がた)にわかります。(個人へのメッセージとし

    て解釈。)

 

 この約束を正しく受け取るには、自己認識の霊性において、「私は神の義・神の子とされた者である」という告白でなければならず、そしてその「霊の関係性の根拠」を、自分の意志と手段によって構築した →と確信する自意識に刷新することです。

 

 その為にはイエス・キリストを信じたら神の子とされるその論理性を、正しく知識として学ばねばなりません。知らないままで「憐れみ」にすがっても手に入りません。

それは「契約を交わす」という、自発行為に出なくてはならないことです。

1.自分の意志とは、イエス・キリストを救い主と信じて信仰告白し、全能の唯一神に帰依

  することへの、「命懸け(真剣さ)の決意」です。

2.そしてその手段は、聖餐式による杯で血の契約」を交わした者として、〔天で生きて

  いるイエスの血と自分の血とが混ざり合うから〕「過去のないイエス・自分という

  新しく生まれ変わった人格」であると、自分の霊的立場の認識を一変させることです。

  

 そうでないと「信仰の行い」のつもりが、単なる善行にしかなりません。その端的な例が、旧約聖書ヨブ記のヨブの態度と行動です。ヨブ記1章~37章までの彼は、「世にも稀な善人の極み」でしたが、神様の側につく信仰者ではなかったのです。

 彼が信仰としていた「噂によって得た」全能の創造神に対する知識(誰彼かまわず厳しく懲罰する裁きの神)が、《信仰として間違っていて》、 だから神様は(悪を行わなかった故に見なしていたヨブを守りきれず、サタン(不信仰者の支配者)に渡さざるを得なかったのです。彼を苦しめたのはサタンです。

 しかし42章で《神の性質を正しく知ったヨブ》は、「知識の無さを悔い改めた」ので、その結果彼は、信仰者として2倍の神様の祝福を受ける霊的立場になりました。(「パウロの目からウロコ」シリーズ第3巻「あなたこそ現代のヨブである。」で詳細解説。)

 現代において、救いの認識が「罪の赦し(悔い改め)」に留まっているなら、その霊的事実は「自我が生まれ変わっておらず」、ユダヤ教の信者と変わらないのです。

 

 

キリスト教は、神の独り子イエス・キリストと信じる者とが、「血の契約」を交わすことによって、神様の祝福の意志(サタンに勝利すること)を、この世で実現する協同作業の体制なのであって その契約の義務を果たす為に、「聖霊」が権威を帯びた道具・武器として→ 信じる者に論理的に与えられるのです。契約によらないと根拠になりません。「憐れみによる施し」ではないし、もし万一それがあったとしても、その個人が「信仰の根拠として掴み続ける」ことはできません。

 

 神様・主イエスが「しなさい。」と指示している信仰の行いとは、⇒「契約の義務」として聖霊の働きをこの地上で実現することであり、⇒「義と認められて祝福を受け取る」ことです。 この神様の救霊の知識に従って、「聖霊を祈り求める」から、聖霊が授けられます。

 

 この原理を幼な子のように素直に信じて、ご自分の信仰を刷新してください。

その結果、主イエスの代行者として「イエスの名を武器として用いる勝利者になります。

エス・キリストにすがりついて、「何かをしてもらう為」に乞い求めるのではありません。

 しかしこの点で、極めて多くの牧師・教師たちが、「求める祈り」の本質を勘違いしていて、霊の関係性を「頼れ。すがれ。」と教理にして説教していたりします。

この霊的幼児の言葉を聞かされ続けるなら、その言葉以上に成長するのは困難です。

 「罪の赦し」はキリスト教のスタート(根本教理)ですが、その先に「イエス・キリストの代理者」としての働きをする義務が待っています。ただ「潔められる」だけでなく、「聖霊のバプテスマ」を受けて、神様に栄光を帰す結果を実現しないと、神様・主イエスからは「義」と認められません。

 

 

 冒頭の質問の答えとして、あなた個人の主イエス・キリストはどこに居るかの正解は、あなたの身体の中です。

 

 典礼として行われる「聖餐式」の、「に象徴された血の契約」によってあなたの身体に流れるイエスの血が、神の法律の元にあなたを神の子とし天の権威を行使するイエス・キリストの代行者であることの絶対的保証なのです。

 

 この真理は、神の三一性そのものが、あなたの信仰によってあなたに実現していることです。「イエスの血」によって「神の霊の宿る宮」となり、「聖霊の臨在」が当たり前でなければならないのです。

NKJV】英語欽定版 ヨハネ第1の手紙。
1Jo 5:7
For there are three that bear witness in heaven: the Father,  the Word, and    the Holy Spirit; and these three are one.

   天で証しをするものが3つあります。父と言葉(独り子)と聖霊です。これら3つは

   一つです。

  5:8 And there are three that bear witness on earth: the Spirit, the water, and the            blood; and these three agree as one.

   地で証しをするものが3つあります。霊と水と血です。これら3つは一つとして認めら

   れます。(イエス・キリストとクリスチャンとは、これら3つによって霊的同位体と

   認められるのです。)

 すなわち、クリスチャンになった根拠を「血の契約」に置かなければ、正しい教理解釈とその行為義認(ヤコブ書)に至らず、霊的権威の顕現(サタンに勝利すること)になりません。

 この「新約聖書時代の救霊システム(霊の立場の跳躍)を信じる」のです。

 

 ですから聖餐式の「血を象徴する杯」は、十字架で死んだイエス・キリストを追悼することを卒業して、「天で生きている主イエスと血の契約を交わした者であることの、再確認をするためです。

 奇跡を含んだみ言葉の約束を実現できない信仰解釈は、最後の審判で「なまぬるい信仰」と判定されるばかりでなく、神様の約束はウソだと主張する霊的反逆として断罪されるでしょう。「霊性が欠落したリベラル派解釈」や、「聖書にも誤謬があると主張すること」などが、その代表です。

  神様の口から吐き出されることになる霊的原因を排除しなければなりません。神様の判断基準では、神様の性質・本質を正しく理解していないことが、「悔い改めなければならない絶対悪」だからです。⇒ 最後の審判で裁かれる原因です。神様が定めた霊的ルールには、人は従うしかありません。祝福を選び取るほうを神様は望んでいます。

 

血の契約」を根拠とすれば、主イエスは当然に、日々の生活の全ての場面において、常にあなたと行動を共にしています。むしろあなたから離れられないと言うべきです。

だから次の主イエスの言葉は正しいのです。

 

ヨハ6:37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのと

   ころに来る者を、わたしは決して捨てません。(一旦混ざった血は死ぬまで一体です。

   それどころか、死後も霊は天で共に過ごすのです。)

ヨハ14:18わたしは、あなたを捨てて孤児にはしません。(甦って天に上った)わたしは、

   あなたのところに(天の権威を携えた霊として)戻って来るのです。

  (← 神の三一性によって、主イエスの血が流れるあなたは、神の宮となり、求めに応じ

   て聖霊が宿ります。これ以上の霊の連帯と結束の保証はほかにありません。)

 14:19いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたはわたしを見

   す。わたしが(甦った霊として永遠に)生きるので、あなたも(霊が)生きるからで

   す。

 14:20その日には、わたしが父におり、あなたがわたしにおり、わたしがあなたにおること

   (血の契約の原理)が、あなたにわかります。(そして死んだら主イエスの血と共

    に、霊は必ず天に昇ります。つまり天国に移される保証でもあるのです。又、主イエ

    スの中再臨の時には、聖書の預言通りに必ず天に引き上げられる確信になります。

     Ⅰテサ4:16~17節)。

 この「血の契約の論理性」によらなければ、神様が期待する本来の、サタンに勝利する力強い信仰にはなり得ません。

 イエス・キリストの血が自分の身体に流れていると知れば、「何に対しても恐れはなくなり、どんなことでも出来る人」として「信仰の行い」が出来るようになり、実際に奇跡が起きるのです。

ヘブ11:1信仰とは、望んでいる事柄(まだ実現していない具体的願望)を保証し、目にみえ

   ないもの(それが現実になった結果を確信させるものです。

 イエス・キリストの代理者(第3の義)として、「イエスの名」で命令して権威を発揮するのであって、イエスの十字架(罪の赦し)に頼りすがる霊的幼児(第2の義)のままであってはなりません。


マタ21:21イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがた

   が、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだ

   けでなく、たとい、この山(障害物)に向かって、(あなたが)『動いて、海に入れ』

   と(解決結果を)言っても(命令すれば)、そのとおり(あなたの求めた結果の実現)

   になります。
 21:22あなたがたが(「イエスの名」の権威を)信じて、(山・障害物に向かってあなた

   が)祈り求める(イエスの名で解決結果を命令する)ものなら、何でも与えられ(実現

   し)ます。」←イエス・キリストに頼りすがるのではありません。
マル 11:23まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、

  (あなたが)『動いて、海に入れ』と言って(命令して)、心の中で疑わず、ただ、自分

   の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。(ここで何を言ったのか

   が問題です。主イエスに頼りすがる言葉なら、主イエスの指示に対応していません。)
 11:24だからあなたがたに言うのです。(イエスの名の権威で)祈って求める(あなたが命

   令する)もの(問題の解決結果)は何でも、すでに受けたと信じなさい。そう(先取り

   の感謝を)すれば、そのとおり(現実)になります。
 

 マタイもマルコも、主イエスに頼りすがって「主イエスがやってくれるもの」として祈りなさい。」とは書いていません。 

 パウロは「ヘブル人への手紙」で、次のように、真理を学んで成長するように指示しています。【 詳訳聖書によるヘブル人への手紙 】

 

ヘブ5:12あなたがたは、今ではもうすでにほかの人々を教えるようになっているべきである

   のに、実際には、【神のみことばの第一原則(霊的真理)】をもう一度だれかに教えも

   らう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳(かみ砕かれた教え)を必

   要とするようになってきています。

   (堅い食物=【the first principles of the oracles of God:英語欽定版聖書 :神の権威

   ある神託の第一とすべき原理・原則】)。

 5:13いつも乳を食物としている人はみな、〔すなわち、意図、思考、行為の各面で神の

   みこころに合致すること〕の教えについて明らかに経験不足〈未熟〉なのです。なぜな

   ら、その人はまだ幼児にすぎない〈まだ話すことができない〉からです。

 5:14しかし堅い食物は、完全に成人したおとなのためのものです。すなわち、その感

   〈精神の機能〉がよく使用されることによって訓練され、道徳的に善い事〈尊い事〉と

   悪い事〈または人間の律法に反する事〉を識別する〈区別する〉ようになっている

   人々のための食物なのです。

 6:1ですから、私たちは、キリストメシヤ〉の教え〈教理〉の初歩(十字架の贖い)

   段あとにして前進し、*霊的成熟という面で完全〈完成〉を目ざして着実に進も

   ではありませんか。もう一度、死んだわざ〔死んだ形式主義〕の悔改め〈放棄〉や神

   〔にあなたがたを立ち帰らせた〕信仰、

 6:2きよめについての教え、手を置くこと、死人の中からの復活、永遠の審判〈刑罰〉な

   どの基礎を置こうとするようなことはやめようではありませんか。〔これらの事はあな

   たがたがもうずっと久しい以前から完全に知っていなければならない事ばかりです〕。

 6:3のみ許しがあるならば、〔今は*さらに高い教えを目ざして〕進もうではありませ

   んか。

   

  ここでパウロは、キリスト教の霊的真理を、乳かみ砕かれた教えからやり直す必要がある。と断じているのです。「義の教えに通じていない」のだから、すなわち「*神様との霊の関係性とその知識」を確立しないと、成熟したクリスチャンになれないと論理的に教えています。

 「霊的幼児」とは救いの概念を、イエス・キリストに「おんぶに抱っこ」ですがりつき、助けてもらうことだと信じている人々です。クリスチャンとなる入信通過ポイントとして、当初には必要な知識ですが、殆どの教会が教理解釈でこの幼児性に留まってしまっているのです。

 すなわち教会で礼拝/典礼として、毎週繰り返されているのは、パウロが警告している「キリスト教の初歩教理」なのだから、それらを卒業し、霊の立場の自己認識を変えなければ、「神の義となる刷新」を実現できません。

―― 何故なら〔「罪の悔い改め(入信原理)」によってでは、神の義(霊的成熟という面)が完成するのではない〕からです。――

 

 しかしほぼ全てのキリスト教宗派が、このキリストの教え〈教理〉の入信初歩の段階に留まっていて、《その中で「聖化という概念」を模索 》しています。それは乗り越えなければならない「血の契約という霊的ギャップがあるのに、それが分かっていないからです。

 そして聖霊を受け取れないままでいるのに、受け取ったように語る偽善に陥ってしまいます。

 主イエスの「奇跡の行い」を、「現代には起こらない。」とするその無知さと傲慢さが、〔聖霊を汚す赦されない罪〕とされるのです。

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