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全クリスチャンの『聖化』の為の必読書。

第6巻 創世記の正しい霊的理解。

第7巻 「洗礼」=水のパプテスマの意味。

第8巻 十字架上のイエスの言葉。

第9巻 パウロが言う「肉体のとげ」。​

第1巻 右頬を打たれたら左頬も向けよ。とは? ISBN-978-4-909051-00-4
             価格    1280(本体+税+手数料)  B6版248ページ

第1篇「右頬を打つ者には、左の頬も向けよ。」

第2篇「たといそうでなくても。」

第3篇「試練と誘惑は同じ言葉。」

第4篇「主よ、主よ、と言うものの正体。」

第5篇「罪人のかしら」と告白するパウロ。

第1篇「右頬を打つ者には、左の頬も向けよ。」

論旨A.目には目で、歯には歯で,の間違った解釈を正す。

1.旧約聖書時代から語り継がれている有名な「目には目で、歯には歯で」という律法の一節は、

  何を教えているのでしょうか? 従来の捉え方は、「被害者は加害者に同じだけの罰を要求

  する」という「報復の規定」であると誤解し、それは復讐しようとする悪人に口実を与える

  までになっています。

2.しかし、この律法の本来の意義は、加害者が被害者に対して行う「償い・賠償の規定であり、

  「加害者がどう賠償するべきか」を教えているものです。被害者が「そうするように」と規定

  要求しているものではありません。

3.この立脚点を踏まえて主イエスは、古い律法を超える新しい価値観を教えているのです。

  その教えを誤解して「被害者が自ら被害を倍増するように捉えている」から、被害者の感情

  として受け入れられる訳がなく、“神が教えることは人の理性にそぐわない”などと、神様の

  性質を疑うまでになっているのです。

4.主イエスが語られた「右頬を打たれたら左頬を向けよ。」の教えは、「悪い者に手向かっては

      いけない。」ことの具体策です。

  つまり、被害者が悪人であり、律法で規定されている「対等の賠償」よりも更に多くの要求を

  加害者のあなたに要求して来る〔悪い被害者〕には、それを拒まず、要求して来る丈のものを、

  「加害者の賠償責任を超えて」でも被害者に与えよ。というものなのです。

5.そうしてでも一刻も早く被害者と和解をして、はからずも加害者となってしまった自分の心に

      平安を来たらすことが最重要だからです。

6.主イエスが語った「山上の垂訓」と呼ばれている、説教のテーマについて、その教えの前提

  条件の「(律法)加害者と被害者の立場」を、私たち全世界の殆ど全て人々 が、すっかり

  勘違いしてしまっているのです。

    そしてこの「神の教えに対する勘違い」は、「パラプトーマという悔い改めが必要な」、

  神様への「不義 (罪)」なのです。

論旨B.

1.「自分の敵を愛し、迫害する者の為に祈る」ことの解釈について、「ルカの福音書」の著者

  であるルカでさえ、間違った捉え方をしています。それはルカが、自身で主イエスの説話を

  直接聞いたのではなく、弟子からの伝聞をまとめたものを「ルカの福音書」として書いている

  からです。(ルカ1:1~3節)

2.その為正しく読んでいくと、各節で論理と文脈が繋がらないので、ルカが誰か直弟子などから

  話を聞いた時、3つのテーマが入り交じってしまったからであることが分かります。

3.6:27 節から始まる「あなたの敵を愛しなさい。」というテーマに対して、29,30 節

  では、前章で説明した「目には目で、歯には歯で」という律法を引用して主イエスが語った、

  新しい教えが紛れ込んでいるからです。 そして31 節は、マタイ7章12節の別テーマが

  顔を出しているのです。その為、とんでもない解釈の間違いを引き起こしてしまいました。

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第2篇「たといそうでなくても。」

1.日本人は、キリスト教に於いて、「救い」を「天から与えられるもの」と捉えているので、

  神様が「救う」のも「試練する」のも、神様の一方的な意志と取り扱いによるものだ,と、

  感じ取ってしまっています。

2.この感性は、「血の契約」による「互恵の立場」での、「親しい交わりとして意志のやり取

      り」をしたいと願う、天の父なる神様の目的から外れるものです。

3.信仰とは、神様の性質・性格を「正しく理解した上で、その教えを理性で納得し自分の救い

  の根拠」としているものでなければなりません。

4.そして「救いの確信」は、「心に願うこと」をその通りに「口で告白し、それを天の父なる

  神様が受け取る」という、自分発の行動によって、自分で作り上げるものなのです。

5.この時、「たといそうでなくても」を口にして、自分の信仰深さのあかしだと主張する人は、

  その意味を「たとえ神様が救い出してくれなくて焼け死んでも自分の信仰を無くすことはな

  い。」と捉えているのです。 この信仰心そのものは称賛に値します。

6.しかし、この解釈はダニエル書の3人の若者の「王への返答」を間違えて理解していて、

  「信仰告白ではない」ことを分からないまま、サタンの落とし穴にはまり込んだ状態であり、

  パラプトーマ・過ちなので、直ちに悔い改めなければならない事態です。

7.サタンからの攻撃で[「焼け死ぬこと」を認めている霊の立場]での「告白」なので、

  神様が救い出して下さらない「結果」を,自分で造り出しているのだと知らなければなりま

      せん。 それではダニエルの言葉の本質は何だったのでしょうか?

8.それは神様の救いへの絶対的な信頼を根拠としたサタンへの挑戦です。

 

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第3篇「試練と誘惑は同じ言葉。」

1.「試練」は神様がもたらすものではありません。

2.神様が用いられる「信仰の成長」の手段は、自発的意志によるものであって、他から強制

      される「試練」ではありません。

  「試される」ことの本質は、信仰の行動に出るか出ないか,です。

3.サタンが「信仰をなくすように」「試練」をもたらすのです。

4.ギリシャ語原点では、「試練」と「誘惑」は同じ言葉。ピラスモス。

5.日本語聖書では、聖書の正しい理解のためには、欄外脚注は必ず引用されるべきです。

  その為、聖書刊行者の側から、脚注などを削除してはなりません。

 

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第4篇「主よ、主よ、と言うものの正体。」

1.主イエスの指示を御言葉の通りに行った,と、信仰の行動を主張している人々に対し、

  主イエスは「私は知らない。不法をなす者」として裁きを下し、天国に入れない「不義」の

  者としています。

 マタ7:21私に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、

            天におられる私の父の御心を行う者がはいるのです。

            :22その日には、大ぜいの者が私に言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名

     によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟を

     たくさん行ったではありませんか。』

       :23しかし、その時、私は彼らにこう宣告します。『私はあなた方を全然知らない。

     不法をなす者ども。私から離れていけ。』

2.主イエスは何を基準として「罪」に定めているのでしょうか? 多くのクリスチャンがこの

  疑問に対する解答を得ていません。

3.「主イエスの指示した行いをすると、主イエスから不法をなす者とされ、天の御国に入れな

  くなる。」という、極めて矛盾に満ち論理の筋が通らない説話であるとし、それ故にこの

  解釈によれば、神とは二重人格か勝手気ままな主権者でなければならず、全面的に信頼を寄せ

  る対象ではなくなってしまうのです。

4.しかし主イエスは、単純明快に「自分達の主張をしている人々」の、「心の奥底の動機」を

  責めているのであって、それらの人々の「栄光を神様に帰すことをせず、自分の栄誉にして

  いること・プライド」が「罪」であることを明らかにしているのです。

 

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第5篇「罪人のかしら」と告白するパウロ。

1.日本のキリスト教では、「悔い改め」を一番の教義としている教会が多い為か、礼拝などで、

  自分を「取るに足りない罪深い小さな者ですが・・・」などと卑下する告白・祈りをする

  クリスチャンをしばしば見受けます。

2.これは日本文化として、自己卑下が謙遜を表す最適な手段だと思われているからです。

  そしてそうする理由を、異邦人への宣教によって、各地に教会を造り上げていったパウロが、

  自分を表現して「罪人のかしら」「罪ある人間」だと言っていることを根拠にしています。

  Ⅰテモ1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは

     まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。『私はその罪人のかしらです。』

   ロマ7:14私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は「罪ある人間」

     であり、売られて「罪の下にある者」です。

3.パウロは、「罪と悔い改め」について、他の手紙・書簡でも、繰り返し教えています。殊に

  「ローマ人への手紙」は、「救いの本質」を「罪」と対比させることで、異邦人に分かりやす

  く書いていますが、その中で自分が「罪人」だと告白しています。

4.多くの教会でも、常日頃から「罪を悔い改めなさい。」と強調しています。それは、ヨハネの

  教えをそのまま、「救われた者への教理」と解釈しているからです。

  Ⅰヨハ1:9もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、

     全ての悪から私たちをきよめて下さいます。

5.「罪の悔い改め」は、信じていない人を「求道者とし」、「信仰者とする」入信段階では、

  当然に必要なことです。それは「救いへの〔狭き門〕」として定められた条件です。

6.そして次に神様は、「悔い改めた後、イエス・キリストを救い主と信じた者」の信仰によって、

  「神様に対する罪がない=義」「清いもの」として受け入れて下さるのです。それならば、

  今すでに「救われていて」神様から「義と認められているクリスチャンが、「私は罪人です。」

  と告白することが、〔絶対に相容れない矛盾〕となるのです。

7.クリスチャンと自認するからには、「私は罪人です。」と言う根拠はありません。

   「義とされた者でありそのように行動する」からです。

  全能の神様が、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。イザ43:4」と評価してくれている

  のに対し、自己卑下する態度・告白は、神様に対する「不義」となり、正しい関係を自ら壊す

  ものです。

8.それなのに今、「既に信じて」「成長しなければならない」私たちクリスチャンが、このパウロ

  の告白『私はその罪人のかしらです。』を「信仰のあかし」のお手本として、

  《自分の信仰深さの裏付けとすべく》、祈りの言葉や会話の端々に付け加えています。

.神様が「きよい者」として下さるのに、「私は罪人です。」と殊更に言い張るのは、神様に

  反逆する罪・パラバーシスとなるのですが、この「霊的関係」への「勘違いの危険性」に

  気付いていません。 (別篇「クリスチャンの罪と神様の赦し」参照 )

10.聖書で教えている「罪」の殆どは、「ハマルティア・的外れ」であって、それは「謝れば赦

  される」のであり、さらに「悔い改め」を必要としているのは、「パラプトーマ・過ち」に

  対してです。

  クリスチャンであれば、神様に対してこのように祈ることで、神様は「赦し忘れて2度と思い

  出さない。」と約束してくださっているのです。そして「義の関係」がただちに回復し、

  「罪人ではなくなる」のです。

11.ですから、「ハマルティア・的外れ」や「パラプトーマ・過ち」を、その都度「赦しを求めて

  祈った」クリスチャンが、「罪人である霊的立場」に置かれることは決してありません。

12.キリスト教では、神様に対する謙遜とは、決して自己卑下ではないのです。

  謙遜の積もりで自己卑下するのは、神様の見方(取り扱い方)に対し、自分の価値判断の方が

  正しいとすることですから、そのこと自体が「不義」であり、更には「自己卑下が敬虔さの証」

  と勘違いしているのが、過ち・パラプトーマ(サタンの惑わしによる落とし穴)に陥っている

  事実なのです。

13.神様に対する正しい謙遜とは、「自意識」を「清められている者である。」と造り変えて、

  信じた時に与えられた霊の賜物を、「子供のように素直に」受け取り、「神の子とされた」自分

  に与えられたその権能を発揮して、その「告白と行動」に出ることです。そして神様の栄光を

  表す結果を得たことについて、「成すべき事(契約の義務)をしただけです。」とへりくだって

  感謝と賛美を捧げ、その栄光(契約の祝福)を神様に帰すことです。

  これが神様に対する「謙遜」です。

14.主イエスへの信仰すなわち「血の契約」によれば、自分の契約の義務を果たすには、神様の

  評価通り「私は高価で尊い者にされている。」という、「自分は義の者である」との自己評価が

  絶対条件なのです。この立場を取らなければ「霊の賜物」を用いられる筈がありません。

15.クリスチャンがする〔霊的立場の告白〕が「私は罪人です。」という言葉なら、神様の祝福を

  自ら否定することです。

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アンカー 1

第2巻。「キリスト教は人生のビジネス契約。」 ISBN-978-4-909051-01-1
              価格    1530(本体+税+手数料)  B6版312ページ

第6篇「新約聖書は契約です。」

第7篇「旧約聖書の有効性。」 

第6篇「新約聖書は契約です。」

1.旧約聖書時代の神様と、新約聖書時代の神様とは、全く別人のようにその性格を変えたと

  する教義が古来より宣教されて来て、私たちはそれを知識としています。そしてそれが

  正しい教えだとして、良い意味で疑う(真理を追求する)ことを拒絶され続けて来ました。

  その為、[「永遠不変である神様」が「変わったこと」]についての正しい知識を持って

  いないのに、分かったつもりでいます。

2.神様は人類に対して、終始自らの規則に忠実な態度で接しており、旧約聖書時代にはその

  古い契約に則った公正な対応をし、イエス・キリストの十字架の死以降の新約聖書時代には、

  キリストとの「血の契約」に基づく公正な態度を表しているのであって、

  神様の性質は永遠に変わることはありません。

3.これは神様が、人との霊の繋がりを保つ手段として「血の契約」を用いたからであり、人類

  の始祖アダムとの「最初の契約」から現在の「生まれ変わり=血の契約」」まで、一貫して

  取られた手段であり、我々の「信仰の根拠」です。

4.しかし、人類にとっては、「神」が「主」であった旧約聖書時代と、イエス・キリストを

  「主」とし、「神」が「天のお父さん」になった新約聖書時代とで、「神の臨在」の有り方

  が変わっているのは確かです。

5.この変化は、人の側の「霊的立場」が変わったからであり、信じる者は「血の契約の結果

  として、その「変えられた[霊的意義]」を正しく自己認識しなければなりません。 

  それは、3段階のステージで移行する「義の自己認識」です。聖書には、これが「血の契約

  によるとの、具体的に意味付けた文脈が限られているので、この3段階の義によって、逆に

  「血の契約」を理解しなければなりません。

6.第1の義は、イエス・キリストの十字架の死(血の贖い)によって、全人類の原罪が贖われ

  た結果、「全ての人の霊の立場が、アダムの原罪の咎から清められた」ことです。これは罪

​  を犯す前のアダムと同じ霊的状態です。

7.だから、サタンがもたらす死を恐れる必要がなくなり、信仰告白をした信者が「救いへの次

  のステップ」として、主イエスを仲介者として「血の契約を交わし」、神様から「神の義」

  に認定されるのです。

  この「血の契約」で神様と霊の関係が繋がるから、それが「生まれ変わることの本質であり

  第2の義」である,との自己認識を持たねばなりません。 神様を「天の父」と呼び、

  主イエスを「兄」として慕う関係です。これは「誰よりも親密な関係(互いにいのちを掛け

  た生きざま)になるのです。

8.そして「第2の義・神の義」が「血の契約」である以上、その契約の義務を果たさなければ

  なりません。その義務とは「神の義とされた立場で、霊の賜物として与えられた天の権能を

  用いて、サタンの仕業を打ち壊すこと」です。(相互の義務責任。)

  しかし、これをしなければ、契約の呪い「打ち壊さなかったサタンの仕業」を自ら招き寄せ

  る結果になってしまうのです。

9.次に「血の契約」では契約者の一方が死ぬと、残された他方にとって、死んだ者の血が自分

  に流れているのだから、この本質によって、自分が「死んだ主イエスに成り代わって」、

  「主の責任・義務や祝福」を引き継ぐのです。つまり自分が「イエス・キリスト」として、

  行動しなければならないのです。

  この「死んだ主イエス」に代わって、「イエス・キリストになって」その義務を果たす

  「責任ある立場」が「第3の義」として、クリスチャンに要求されて来ます。これが

  「血の契約の第2の意味」であり、今のキリスト教に最も欠けている教理理論なのです。

  それ故、主イエスは「聖餐式」で、自分の置かれた霊的立場を吟味するように指示して

  います。十字架で死んだ主イエスを追悼する「第1の義」の為ではありません。

10.新約聖書時代には、ユダヤ教(旧約聖書)のように「困った時の神頼み」で神様・主に泣き

  ついても問題は解決しません。 既に自分に与えられている権能「イエスの名」を使って、

  目の前に立ちふさがる問題を「自分でどかし超越していく」ことを、契約の義務〔ビジネス〕

  として、死んでのち蘇られた主イエスは求めているのです。

  それは神様が、それが出来る〔権威者の立場〕にしてくれているからです。

11.この「第2~第3までの義」の成長段階が、神学用語で用いられる「聖化」の本来の意味

  です。しかしこの「聖化」は、神様が評価するものではなく、自分が造り上げるものです。

  神様は信じる者全てに、平等に「神の義」という評価を与えています。

12.新約聖書の章・節を、理性で納得するまでその書かれた言葉の意味通りに詳しく解読してい

  くと、今まで常識と思っていたことが、そうではなかったと目からうろこが落ちるように、

  その「単純明快」な神様の[救霊]理論が理解出来るのです。

  そしてその「単純明快さ」の故に、神様・主イエスに100%の信頼を寄せることが出来、

  「幼な子」のように素直(疑わず)に「確信ある信仰」を持てるようになります。

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第7篇「旧約聖書の有効性。」

1.キリスト教は、イエス・キリストを仲介者とした、神様と人との「血の契約」です。

  この単純な本質を多くのキリスト教信者が十分に悟り切っていません。ここから全ての

  誤解が生じているのです。

   出エジ24:6モーセはその血の半分をとって鉢にい れ、

                  :7契約の書を取り、民に読んで聞かせた。

                  :8モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。

      「~~、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」

2.キリスト教における「契約」は、一般的に交わす契約と違って、「血の契約」と呼ばれる

  ものです。この「血の契約」の解析は、前篇の新約聖書篇にて行いました。

3.どんな契約でも、互いに相手に利益(祝福)を与える義務が生じるから、その行動を取る

  責任があるのですが、日本の多くのクリスチャンは、神様に対しての自分の義務を果たし

  ていません。

4.その義務とは、旧約聖書では神である主が守るように命令した、「永遠のおきて」を守り、

  新約聖書では主イエスが「しなさい。」と指示している、「神様・主に栄光を帰す結果」を

  世に向かって自分が実現し、神様を祝福することです。

5.その目的は、「サタンの仕業を打ち壊すこと」ですが、しかし、クリスチャンと呼ばれる

  人々の多くはこの行動を取っておらず、つまり自分の義務を果たさず、逆に「なんとかし

  て下さい。」「問題をどけて下さい。」と、赤ん坊のように神様に泣きつきすがりつく

  「困った時の神頼み」の祈りをしています。人間的に「頼り」「すがって」も、それは

  「信仰の行動」ではありません。

6.「契約」という関係において、自分の義務を果たさない限り、神様・主イエスが祝福を与え

  ることはなく、かえって契約の呪い(反対の結果)を自ら招いてしまう事態に至るのです。 

 7.これは「契約」という、[義務を果たすことの対等な立場関係」において、神様は公平・公正

     で義なる正確の方ですから、「自己責任」としての当然の結果です。

 8.しかし人の側では、「神様は何てひどい災難を与えるのか。」とか、「この試練で何かを学

  ばせるのだ。」など、神様に責任を被せる不正を行っています。

 9従来の旧約聖書時代の「神観」について、ヨブ記に書かれている内容を「懲罰を下す恐ろし

  い神」「裁きの神」だと私たちが捉えているのは、[霊的に「義でない者」への対処結果]

  を、「血の契約」という定規で解釈していないからです。

 10.旧約聖書では、一方的に神様が強圧的に命令し、且つ裁きを下しているように書かれていま

  すが、それは神様とサタンとの「霊の戦い」に神様が勝利して、「将来にイエス・キリスト

  を誕生させなければならない為」に、割礼によって神様と契約したイスラエル民族を「霊的

  に清く守る目的」に対して、人の側が「割礼すなわち血の契約」の意義を忘れ、素直に神様

  の指示に従わず義務を果たさなかったからなのです。

11.アブラハムとの血の契約「割礼」と、モーセへの「律法」により、旧約聖書時代には、

  「律法の行いで義とみなされ」ましたが、それは「信仰によって義と認められるその義」で

  はありません。現代では、「キリストを信じないが良い行いをする者」への、神様の取り扱い

      が、「みなしの義」です。

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アンカー 2

第3巻 「あなたこそ現代のヨブである。」  ISBN-978-4-909051-02-8
​               価格    1430(本体+税+手数料)  B6版288ページ

第8篇「ヨブ記で学ぶ「信仰」と「みなしの義」。」 

第9篇「神の統治はあるのか。」

第10篇「神が人に病気をもたらすのか?」

第11篇「こらしめの本質。」

第8篇「ヨブ記で学ぶ「信仰」と「みなしの義」。

1.主人公のヨブは、《信仰の人》と言われます。それは彼自身、自分の信念と行動を「正しい」

  としていて、それは神様も認める「潔癖さ」でした。それ故、神様はヨブを「律法者・義と

  見なして」彼を守っていたのです。しか彼の「信仰の中身」「神への恐れ」でした。

  旧約聖書の「律法による強制的な義務感」の為、イスラエル民族の神認識が「裁く神、懲罰を

  下す恐ろしい存在」であり、「信頼をよせて主とする信仰」ではありませんでした。

    そして今の私たちも、同じ捉え方「旧約聖書の神の性質」を教理としています。

2.だから神様は、当時のこの神認識を改めさせる為に、つまり、「信頼すべき神・主として正し

  くその性質・性格を理解し、信仰による義となるように、このヨブ記を書かせています。

  (最終42章でヨブは、真の信仰者になりました。)

3.その為にヨブという、自他(神様)共に「心から正しい行いをして[義とみなされて] いる」と

  認める者でなければ出来ない「神様への直訴」をさせているのです。

  その内容は「人が何故災難を被るのか?」という「原因を明らかにする」ことですが、この時

  ヨブ以外に誰も「適格者」がいなかったから、神様は彼をサタンの支配下の世で、わざわざ

  「選び出した」のです。

4.ヨブ記での「直訴への適格」とは、「正しい行い・善行を積み、罪・悪に染まっていない人

  ヨブ」が、「何で自分がこんな苦難に遭わなければならないのか?」と、[彼自身の認識

  《懲罰を下す恐ろしい神》]に立って、「[善を行う自分]への取り扱いが間違っている。:

  31章」と、「ただ一人言える立場」だったことです。

5.ヨブ自身がこの「不合理」に気付くまで、延々と「神が苦難をもたらした。」と、当時の

  神認識「裁いて懲罰を下す恐ろしい神(3人の友も同じ)」を、述べ立てています。

6.ヨブが「信仰」としていたのは、彼が噂を元にして「神が下すと誤解した懲罰への恐れ」です。

  心に満ちる恐れと怯えが彼の「信仰」となっていました。

7.ヨブはこの「懲罰」を恐れる余り、完全に悪から離れ良心に基づく行動を取っていたので、

  神様は彼の「行いの正しさ」を認めて「割礼がある者」と見なして扱い、彼を守りの垣で

  保護し祝福していました。→「見なしの義(旧約時代独特の救い)」

8.サタンはヨブの信仰の本質が「恐れであること」を明らかにし、だから彼が霊的に不義」で

  あると告訴したので、公正・公平で義なる性格の神様は、サタンの言い分を受け入ざるを

  得なかったのです。

9.ヨブに係わる全てのものは、サタンの「束縛に捕らわれて」しまいました。

  ヨブにとてつもない災難と肉体的苦しみとをもたらしたのはサタンであり、決して神様では

  ありません。神様はかえって苦難を限定的なものにし、救い主としての立場を貫いています。

10.ヨブの身に降り掛かった災難は、彼自身の心に思い描いていた「恐れのイメージ」がサタンに

  よって現実化したものです。全てはヨブが告白している通り、彼自身の思いから出たもので

  あり、「恐れの信仰」が原因なのです。

11.多大な苦難の末に、若者エリフの言葉と神様からの教示(詰問)を受け、正しい神様の姿を

  知って、知識の無さと自己を悔い改めたヨブは、「神様を信頼して主と仰ぐ信仰」に変わっ

  たので「義」となり、神様に受け入れられる者となりました。

12.この時を境に「義の人」となったヨブは、サタンの「捕らわれ人から解放されて」神様の側

  に立つ者となり、今度こそ正当に神様の祝福を2倍受け取る者となったのです。

  このように神様の祝福は論理的であり、行われる事は正しく納得出来ます。

13.ヨブ記の主人公ヨブを、1章1節から「素晴らしく立派な信仰を持った模範とすべき人物」

  として読み進んではなりません。彼が信仰者となり「神の義(祭司)」とされたのは、

  42章6節以降です。

14.ヨブが全能者を「神」と呼んでいる時は、「主」とする信仰を持っていない証拠です。

  聖書はきちんとこの使い分けをして教えています。

  ヨブが霊の上で「不義であった」として読解するなら、神様の正しさが一貫していて、筋が

  通った起承転結が、単純明快に書かれていると理解出来るのです。

 

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第9篇「神の統治はあるのか?」

1.この地球と人類とを神様が創造したのだから、当然のこととして神様が支配権を持ち、あま

  ねく神様の意志によって治めていると、考えている人々が実に多く、クリスチャンですら

  そうであれば、世の常識としての知識レベルは言わずもがなです。

2.しかしそれなら、理不尽な不幸が人々を襲うのも神様の意志なのでしょうか? 神様はなぜ、

  色々な災いが人々を襲い、彼らが苦しむのを黙って見ているのでしょうか。

  神様の約束を信頼し、「救い」を求めて主イエスへの信仰を明らかにしている者へ、祝福で

  はなく、災いや病気をもたらし、人を苦しめる事を良しとしているのでしょうか。

  神様の有りようをこのように解釈しているなら、それはサタンの惑わしによるパラプトーマ・

  過ちに陥っているのです。

3.創造主である神様は、自分に似せて人を造り出し、地上の支配者にしているので、支配者に

  ふさわしくない災いや病気を与える筈はありません。元々神様はそんなものを持っていないし、

  人を苦しめようとは考えていないからです。 

   創世1:26そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

         そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地を這う全てのものを 支配

     させよう。」と仰せられた。

4.そして、人が「地上の支配者」なのだから、最早、地上に関しては人がそこを自由に支配する

  ように、神様は手を引いているのであって、この意味で「神様の統治」はないのです。

5.理不尽な苦しみ、色々な災い、病気など、人が被るそれらの「間違って試練と受け取っている

  もの」は、その人が心の中で「こうなったら困る」と恐れているイメージが現実になったもの

  です。

6.その災難・試練は、その人が心にもつ恐れ(それが不義です)を口に出すことによって、

  サタンがもたらすのです。

7.イエス・キリストを主とする「血の契約」によって、クリスチャンには霊の賜物が与えられ、

  その権威によってサタンの仕業を打ち壊すことが「契約の義務」となっています。

  この霊の権威によって、信じる人が霊の賜物を実践し成果を上げ、天の父に栄光を帰すことが、

  すなわち「地上を支配する神」として、地上を統治することなのです。

 

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第10篇「神が人に病気をもたらすのか?」

1.「神はクリスチャンに何かを学ばせる為に、病気や災いを持ってくる。」という教義を述べて

  いる宗派がありますが、これはキリスト教の教えとして正しくありません。

.神様は「病気をいやす方」です。この神様の約束は、出エジ15:26節です。

    出エ15:26 わたしはエジプト(サタンに従い神に逆らう者)に(裁きとして)  下したような

      病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。

3.それなのに多くのクリスチャンが、「神が病気や災いを持ってくる。」とし、「何で神は

  そんな事をするのか?」と、心の中で神様の性格を疑ってしまい、神様への純粋な信頼を損ね

  ています。

4.そうなると、表面的に信仰的な態度を取り繕う偽善に陥ってしまい、霊の上で「義」ではなく

  なってしまうのです。

5.神様は公正・公平で義であり、真実、忠実な方だから、イエス・キリストを主と信じるクリス

  チャンに「契約の祝福」を与えこそすれ、病気や苦難をもたらすことは決してなく、「神が

  試練を与える」ことは有り得ません。

6.神様は人類に完全な自由意志を与えているから、「強制的に何かを学ばせる」ことは絶対に

  ないのです。「信仰の試練」と言われていることの本質は、「訓練」です。

 

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第11篇「懲らしめの本質」

1.日本語に訳された聖書のその(大元の)原典は、英語聖書欽定版です。

2.その原典である英語の欽定版聖書が、更に大元のギリシャ語聖書から翻訳された時に、一つ

  の原語(パイディア)を「恣意的に別々の意味の言葉に訳し分けた」のですが、

  その「間違い」がそのまま日本語聖書に引き継がれてしまっています。

3.その「訳し分け」が、旧約聖書当時の人々の感覚によるものであり、神様の性質に照らして

  間違っていることを、霊的観点から明らかにします。

4.神様は人に「懲らしめ」を与えて、人を「強制的に従わせる」ことはありません。

 「懲らしめ」は「罪」に対する「再発防止策」ですが、そもそも「罪に係わる」ことには、

  神様は一切手を出さないからです。

5.それなら神様の用いられる「方法」は何でしょうか? それは「訓練」です。

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