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著者 紹介

 古山 パウロ 誉主吾 ( こやま ぱうろ よしゅあ)。  

 1945年1月 岡山県に生まれる。 高校生当時に受洗。

50余年に亘り、キリスト教に接し学んで来た結果、「信仰の義」とは、「血の契約」を根拠にしなければ、神様の視点からは「義になれない」と、聖書から解明しました。

 クリスチャンとして聖書が教える通りに、「新しい名」によって、「生まれ変わり」を証しし、自己認識を「神の義」に変え、神様への「義の筋を通す教理」を実践しています。それはクリスチャンの義務として、「神様に栄光を帰す働き」をすることです。

 

 某自動車会社に勤務し、品質保証の為の原因解析手法「なぜなぜ」によって、「物事の究極の本質」を探り当てる、「真理探求への事実の切り分け」を身につけ、それが私自身の思考の原点となりました。

 定年退職後、超教派神学校で広く学ばせて頂きましたが、キリスト教教理の論理付けにおいて、「御言葉を矛盾なく、真理とする」為に、この解析手法を用いました。

 御言葉一節一節の「霊的意味」を論理的に追求した結果、従来の、キリスト教徒が抱える「矛盾と疑問の御言葉解釈」そのものが、「勘違い・パラプトーマ=不義」であると分かりましたので、「聖書の記述の論理的正義」を解き明かす召命を、強く感じた次第です。

 

 神の霊が教えるキリスト教の教理では、神様についての知識や聖書の解釈において、「それが間違っているのに自分では正しいと思い込んでいる状態」が、「正しくない」ので、それを「パラプトーマ(ギリシャ語原典)・過ち/間違い/勘違い」という、〔不義の部類の「霊の段階」〕に格付けしています。

 

 そして今、2000年来の伝承として教えられているキリスト教教理解釈にも、イエス・キリストを信じる方々一人一人の「信仰」の間にも、少なからざる「パラプトーマ・勘違い」が見受けられます。

「パラプトーマ・過ち/間違い」とは、自分では「正しいと思い,信じていること」が、「勘違いや間違い」であり、

     従って「主イエスを信じて期待し祈って行った」行動が、

   「主の前に届かず」正しい(義の)結果にならないことです。

 

  またサタンの惑わしなどによって、予期しない時に落とし穴に嵌まって足を掬われたり、知らず知らずの内に違う道を進んでしまう間違いであり、本来の求める祝福を得られないことであり、この場合、「落ち度」が適切な言葉でしょう。

 

 霊の賜物の祝福が現実にならず、結果的に「神様に栄光を帰せないこと・もの」全てに及びます。それによって他者が害を被れば「過ち」「過失」で表され、自分自身が被害を受ければ「間違い」となるのです。

 

 しかし当人は自分が正しいと思っているので、この「パラプトーマ」に気付くことが非常に困難です。そしてこの時、その「まちがった知識」によって、神様との「霊的関係が切れ掛かっている」ので、早急に「正しい知識」に改めて、「霊の繋がり=義」を回復しなければなりません。

「勘違い」が判明した時点で、すぐに「謝って赦して頂く悔い改め」をしなければならないのです。聖書で「悔い改め」を要求しているのは、この「パラプトーマ・過ち」への対処です。すでに知っている「自分の知識」を正して、「霊の関係」を修復することであり、すなわち「義とされた自分」という自己認識に、「刷新する」ことです。

 

 聖書はこの世的犯罪のことを問題にしているのではありません。クリスチャンとは、そのような「罪」からは既に決別して、「清い者・神の義である」と、神様は扱ってくださるからです。だからこそその正しい知識を身につけなければならないのです。

 本書の目的は、聖書に書かれた文章を「霊的に解釈」し、それが事実であるとして「論理的」に証明し、キリスト教についての知識を改めて、神様への信頼を確実にして頂くことです。 

〔神様とは公平・公正で(正)義を貫く方であり、自分に対して忠実[真実]な性格の方である〕として、全てのことへの判断基準にしていただくことです。

 

 聖書の聖書たる権威は、それを「霊の導き=神様は絶対に正しい。」という定規を当てて読むことで、「神様の教え」がおのずと読み出せるのです。

本書はこの「読み方」を実践した結果、新しく浮かび上がった「終末期に私たちが確信すべき教理」を、聖書が教える真理として明らかにしました。

私は、主イエスからの召命として、[霊の理解によって勘違いを正す]ことへの働きを任されましたので、「なすべきことをしただけです。」と、天の父なる神様と主イエスに栄光を帰し、賛美する一人の働き人です。

 栄光在主。

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