第23篇「洗礼=水のバプテスマの意味。」
1.日本のキリスト教教会で、信者となる為の儀式として、「水のバプテスマ」が行われています。
そして「洗礼式」は教会の聖礼典とされ、教会の会員になる資格の「要件」にされているのです。
しかし、日本人を含む多くの非ユダヤ人には、ヨハネが行った「水による悔い改めのバプテスマ」
は、「イエス・キリストを信じて救われたことの根拠」にはならないのです。
2.すなわち、「水による洗礼式」は、的を得ていない錯誤に基づく儀式です。
クリスチャンであることの根拠を問われた時、「水のバプテスマです。」と答えるのでは、霊的に
サタンに足元を掬われる恐れがあります。
3.洗礼者ヨハネが行ったのは、神様と「割礼によって契約して」いるイスラエル民族が、「神様から
離れた生きざまを〔悔い改めて〕」、「本来の霊の関係〔義〕を取り戻すように」と、彼らに授け
たものです。全能の神様への再帰依を意味していたのであり、キリスト・イエスへの信仰とは関係
ありません。
4.だからキリスト・イエスを救い主と〔信じる事の証拠・根拠・証認〕ではなく、元々神様と契約し
ていなかった(異邦人とよばれる)非ユダヤ人には、「水のバプテスマ」は無意味で、本来的には
不必要な行為です。
5.今、「水のバプテスマ」は、「生まれ変わり」の「象徴・型」として、「死からの復活」をヴァー
チャル〔仮想・擬似〕体験するものとして、捉えられるべきですが、しかしそれは「救われたこと」
の自意識の変革の為であっても、神様に〔信仰を認められる〕為の、「正当な手段・手続き」では
ありません。
6.それは「割礼」を必要としていた旧約聖書時代に対し、主イエスの十字架以降、現在の全人類の
「霊の立場」が、「原罪を赦された者」になっているからです。
( 別篇「新約聖書」,「神の義と義の違い」参照。)
7.現代キリスト教においては、イエス・キリストを救い主と信じて、ローマ書10:9~10節に
従って「その信仰を口で告白する」ことによって、「血の契約が成立し」、「主イエスのバプテ
スマ/イエス・キリストにつくバプテスマ」を授かり、「生まれ変わり」をするのです。
8.そして「信仰告白と聖霊を求める祈り」に伴って、「聖霊のバプテスマ」を受けて御霊の賜物を
受け取ることで、真のクリスチャンになれるのです。
9.しかし日本のキリスト教会では、「水のバプテスマ」でクリスチャンになったと誤解していて、
「悔い改めで終わっている教理」である為、「聖霊のバプテスマを受けて霊の繋がりを確信する」
教理になっていません。
10.信仰の根拠は、「血の契約による(生まれ変わり)」であり、その契約の義務を守るという自らの
「強い意志」こそが、自分の「信仰」の揺るぎない確信とならねばなりません。
そしてその意思表示の言葉こそが、「確証であり根拠」なのです。
第24篇「「洗礼名」の必要性。」
1.クリスチャンになることの本質は、神様・主イエスとの「血の契約」です。
2.「血の契約」により、クリスチャンは主イエスの血が自分の身体に流れる「第2の人格」に「生ま
れ変わった」のであり、古い自分は死んでいなくなったことを日々自覚しなければなりません。
そして過去のない自分としての新しい生きざまを始めるのです。
( 別篇〔キリスト教は人生のビジネス契約 -新約聖書篇-〕参照 )
3.その為には、イエス・キリストを救い主と信じて「生まれ変わり」をしたクリスチャンには、必ず
「新しい名前」が与えられなければなりません。「死んだ人の名前」で生き続けるのは、神様と
自分に対して筋が通らないからです。 そして世間に対しても、証にならないからです。
4.どこの国の人々も、生まれた赤ちゃんにその子の将来の幸せを願って、親の希望を託し、相応しい
名前を与えています。
天の父なる神様も、新しく生まれ変わったクリスチャン(神の子)には、新しい名前を付ける権利
を持っています。そして新しい人生を歩む根拠にするように命名しています。(アブラハム、イス
ラエル、モーセ、ペテロ、ボアネルゲ、パウロ、バルナバ など)。
5.私はクリスチャンですと言いながら、生まれ変わりする前の名前のままでいるなら、 「血の契約」
について正しい知識を持っていないことの現れであり、契約に基づく義務の行動を取れる者となっ
ていない可能性を否定出来ません。
6.生まれ変わる前の名前のままだから、いつまでも「罪の意識」から離れられないのです。この状態
が「聖霊のバプテスマ」を、「救いの根拠」として確信していない日本のキリスト教です。
第25篇「クリスチャンの罪と神様の赦し。」
1.日本語に訳された聖書の大元の原典は、英語聖書欽定版です。
その原典である英語の欽定版聖書が、更に大元のギリシャ語聖書から翻訳された時に、ギリシャ語
では3つの言葉「パラバーシス」「パラプトーマ」「ハマルティア」で、正しく区別されていた
「罪の種類」を、英語では表すことが出来ず、一つの言葉「Sin」としてしまいました。
2.次に英語聖書を原典として日本語へ翻訳された際、その「間違い」がそのまま日本語聖書に引き継
がれて、更にギリシャ語原典が「罪の種類」を使い分けていた本旨と全く逆の「意味づけ」の
日本語を当ててしまっているのです。
3.その言葉「罪」によって、日本の殆どのクリスチャンが自分の信仰の告白の有り方を誤解して、
かえって自分を不義に追い込んでいる状態です。
4.日本語新約聖書で「罪」と表記されたその多くが、「的外れ」「失敗」と翻訳すべきギリシャ原語
であり、それ故、神様の性質に照らして「罪」とした訳語が間違っていることを、霊的観点から明
らかにします。
5.新約聖書時代には、神様は人がするあらゆる行為を咎めることをしていません。しかし、人はその
結果を刈り取る責任を負うことに定められています。神様は「罪」そのものを憎んでいるのですが、
それを犯した人に対してその時点では何も関与しません。それは人に完全な自由意志を与えている
からであり、イエス・キリストの血によって、アダムに始まる人類の原罪が贖われているからです。
6.新約聖書の多くの書で、「罪が赦される」と書かれているのは、その人が自分の罪を悔い改めた
場合だけです。「悔い改め」がない時はその罪は罪のまま留まると教えられています。
7.神様は只、自由意志による行為を行った時の、「その人の霊」が神様に向いていたか、神様に背く
ものだったのかだけを見て、「霊の関係」が「義・神と繋がっている」か、「不義・罪=神様と関
係が切れている」かを判断し、それに基づいた対処をしているのです。
8.ギリシャ語原典の3つの言葉は、「罪」について、この「霊の関係を定規」にして、明らかに区別
する単語なのです。
第26篇「主イエスが指摘する罪とは。」
論旨A.
1.多くの「癒し」を実現した主イエスですが、ここで取り上げる主の言葉は、他の「癒しの働き」の
中で語られた言葉と大きく異なっています。
2.主イエスは全て病人の「癒しへの信仰」の「確信の度合い」に応じて、癒しの奇蹟を 現実にして
います。それは「信じた通りになる。」という、「信仰の原理」だからです。
3.しかし、本篇で取り上げる「中風の男」と「ベテスダの池の男」には、主イエスはストレートに
「癒し」を行っていません。
4.それは、癒される側の中風の男が「癒される信仰」を持っていないからであり、ベテスダの池の
男の場合は、「癒しへの〔正しい目的意識〕」を持っていなかったからです。
5.まっすぐに癒しを願わない霊は、主イエスにとって癒しの賜物に逆らうものだから、「不義」で
あったと理解しなければなりません。それを主イエスが指摘しているのです。
ギリシャ語原典では、「パラプトーマ・勘違い」です。
論旨B.
6.ベテスダの池の男は、「癒しへの〔正しい目的意識〕」を持っていませんでした。
7.それは素直に「癒されて歩きだす」ことを希望としておらず、担ぎ上げてくれる「助っ人待ち」
を目的にしていたことです。これが聖書で言う「罪・的外れ・ハマルティア」です。
第27篇「十字架上のイエスの言葉。」
マタ27:46三時ごろイエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。 これは、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
同、マル15:34。
1.主イエスが叫んだこの言葉は、「霊の交わりが途切れた悲しみ」を端的に表現していることに
間違いありません。
2.そして、主イエスが死の直前にこの言葉を発したことから、古来より、主イエスでさえ最後には
嘆くのだから、一般のクリスチャンなら直面する問題を神様に向かって嘆いて良いのだと、解釈
されて来ています。
3.そのように嘆くようにと、主イエスは模範を示したのでしょうか? 絶対にそんなことはないの
です。
4.この言葉は詩篇22篇1節です。この22篇はキリストの十字架の死と、それによる人類の罪の
贖いを預言したものです。
5.だから主イエスは、十字架の上でいよいよ死の直前になって息絶え絶えの状態で、「今まで群衆
が見てきた状況(ローマ兵士によるくじ引き)こそ、この詩篇22篇(預言)が現実(成就)に
なっている」ではないか,と教える為に、皆に聞こえるように大声で叫んだのです。
6.しかし、両手を釘付けされた窒息死直前の肉体では、1節しか叫べませんでした。
7.前夜のゲッセマネの園での祈りで「あなたのみこころのようになさってください。」と祈り切った
後には、主イエスは自分の使命(十字架で死ぬこと)に臆せず向かっていて、
ヨハネ19:30節によると「(自分の使命を)完了した。」と言って、頭をたれて霊をお渡しに
なった。と書かれています。
8.信仰の原理によれば、「嘆き」を心の内にかかえている間は、その嘆きの元となる問題は解決し
ません。その信仰の根源である主イエスが「嘆いた」と誤解するのは、過ち・パラプトーマであ
って、神様の前に正しくない不義となるのです。
9.この詩篇22:1節以外の主イエスの言葉は、百人隊長の信仰によって弟子達に後日談として伝え
られたものです。何故ならマタイとマルコは、群衆にまぎれて遠くから見ていたので、主イエスの
か細い声が聞こえる筈はなく、十字架の真下にいたヨハネは犯罪人の救霊に関心をよせていないか
らです。
しかし、刑の執行責任者であった百人隊長は全ての言葉を聞き取っていました。
10.4福音書を横並びにして各節を比較すると、それぞれの著者の「十字架との距離」が 炙り出され、
「霊的な立ち位置」が明確になっています。→ 付表。
第28篇「イエス・キリストの贖罪の為の無原罪性。」
1.人の子イエスが全人類の代表者キリストとして、十字架上で死んだことによって、神様は人類の
原罪を赦し贖ったのですが、その際、人の子イエスが〔いけにえの条件として〕神様に対する罪
〈原罪〉を持っていないことが絶対的条件でした。
2.何故なら、神様が「罪を赦す条件」を、〔血を流すこと(いのち)〕であるとし、「罪を持たな
いものの血(命)」で贖わなければならない。」とする、「救いの規則」として定められたから
です。そしてその規則を例外なく要求されるのです。 ユダヤ教の(燔祭のいけにえの動物は、
神様に対する罪を持っていません。)
3.その為、神様は、人類の罪を赦し贖うために、聖霊を乙女マリアに臨ませることで、人間の男に
よらず彼女を懐妊させ、原罪を持たない男子イエスを誕生させています。
4.しかし母となった〔マリア自体も、原罪を持っていてはならない〕ことが、義である神様にとって、
自らの義の故に絶対条件でした。
5.しかし、古来の神学教義では、「母マリアが無原罪であることの証明」が出来ていないのです。
6.乙女マリアの「聖霊による」懐妊は、男からの「原罪を受け継いでいないこと」は証明出来ますが、
[母胎の無原罪]が証明出来ないので、「人の子イエスが〔無原罪〕でなければならない絶対則」
が完全な教義に仕上げられないのです。
7.その為、カトリック教義では、神様は「マリアを特別扱いして清い人とした。」と、「母マリアが
無原罪である」との理論をでっち上げました。その主たるものは、「マリア崇敬」「無原罪懐胎」
「聖母被昇天」です。
この詳細は、別篇〔イエスの母マリアのこと〕参照。
8.しかしそんなことをしなくても、乙女マリアは元々「無原罪」なのです。
創世記3章のアダムとエバの「善悪の知識の木の実を食べた事件」の、神様の対応を正しく知れば、
エバはその時、罪を赦され、神様と「義」の関係に戻っているからです。そして人類の女性は全て
エバの血筋であり、「無原罪」の遺伝子を受け継いで来たから、乙女マリアならずとも全女性は
霊的に「無原罪」です。
9.従って、「聖霊」と、「〔無原罪の母胎〕である処女マリアの〔信仰・義〕」との掛け合わせの
結果として、生まれ出た男の子イエスは論を待たず「無原罪」なのです。
10.しかし一方で、プロテスタント教派では、「人類の罪の贖い」の為には、「人の子イエスの無原罪
の絶対則」を、立証しなくてはならない,とするまでの、「筋を通す『義』の解釈」を貫いていま
せん。
それは「血の契約」の論理性によってでしか、その「無原罪性」を理論化出来ないのに、「血の契
約」をキリスト教の根拠としていないから、あえて目をそらしているのです。
この姿勢は、神様に対して霊的に正しくありません。(パラバーシス・背き)。
11.人の肉体的レベルを超えた、神様の権能〔霊の働き〕の結果を、「理性的」に納得するのが、神様
に栄光を帰すことであり、「信仰義認」です。
第29篇「イエスの母マリアのこと。」
1.今、世界中のカトリック教会で、イエスの母マリアが「聖母」として崇められていて、主イエスを
差し置いてまで、聖母マリアに祈りを捧げ、心の拠り所にし、崇敬の対象にしていたりしますが、
それはとんでもない間違いです。
2.それは、キリスト教神学の根本をなす「イエスの十字架の死によって人類の原罪が贖われた。」
ことの根拠として、「人の子イエスが〔無原罪〕でなければならない絶対則」への、こじつけた
理論捏造の結果です。
3.乙女マリアの聖霊による懐妊は、聖霊の側の「無原罪」は当然であるとして、母胎の「無原罪」
が証明出来ないので、「人の子イエスが〔無原罪〕でなければならない絶対則」が完全な教義に
仕上げられません。
4.その為、カトリック教義では、神は「マリアを特別扱いして清い人とした。」と、「母マリアが
無原罪である」との理論をでっち上げました。その主たるものは、「マリア崇敬」「無原罪懐胎」
「聖母被昇天」などです。
5.しかしそんなことをしなくても、乙女マリアは元々「無原罪」です。この分析は 前篇[イエス・
キリストの贖罪の為の無原罪性]で行いました。
6.主イエスは自分の母について、「崇拝せよ。」と言うどころか逆にそれを否定しています。
ですからマリア崇拝は、明らかな霊的間違いです。
第30篇「最後の晩餐」と「過越しの食事」の関係。
1.「過越しの食事」として定められているのは、ニサン(又はアビブと呼ばれる)月の、14日・
金曜日の夕食です。 「過越しの祭り」とは、「種なしパンの祭り,ニサン15日(土)~21日
(金)」の前日の「備えの日」であって、ユダヤ民族の出エジプトを記念する宗教行事です。
出エジプト記12:14節から27節までその由来が書かれています。
2.それは、「5日前から選り分けて準備した小羊の焼肉」と「家を掃き清めてパン種を無くしてから
造った種なしパン」と「苦菜」とを、「立って食べる儀式」の特別食です。
レビ23:5第1月の十四日には、夕暮れに過越しのいけにえを主にささげる。(第一日=備えの日、
パン種を家から除き、種なしパンを焼く。小羊をほふり焼く[主へのささげ物]の日。)
:6この月の十五日(第二日)は、主の、種を入れないパンの祭りである。七日間(二十一日
まで)、あなたがたは種を入れないパンを食べなければならない。
3.主イエスと11弟子がした「最後の晩餐」は、翌「金曜日午後3時の十字架上の死」から逆算す
れば、その前日木曜日の夕食でなければなりません。それなら「過ぎ越しの食事」でないのは当
然です
4.しかしマタイ、マルコ、ルカの3福音書には、「種なしパンの祝いの第1日になって」と、
「過ぎ越しの祭り当日・金曜日」の朝になってからの行動のように書かれ、その夕方の伝統祭の
「過ぎ越しの食事」として解釈出来るような書かれ方になっています。
5.従って、順当な読み下しでは、その「夕食」から翌日の十字架の死までの、〔事件の〕時系列の
整合がとれません。本来のユダヤ教祭事「過越しの食事」と、主イエスが行った「過越しの食事
といわれる最後の晩餐」とが、「丸1日」のずれと言うか、重複が生じてしまっているのです。
6.この矛盾は、「聖書は人が書いた書物だから、神の言葉ではない。」との批判を産み出す原因に
もなっているものですが、そのような聖書の信頼を無くす解釈が良い筈がありません。
それならどうすれば良いのでしょうか?
7.それには、聖書に書かれたことが「矛盾でなくなる」ように、ここでは誰であっても、一つの
「仮説・私的解釈」を持ち込まなくてはなりません。しかしそれは「聖書の範囲内で」可能性を
調べ上げることです。そして神様の義の筋が通る解釈を採用するのです。
結果が御言葉で裏付けられるものでなくてはならないからです。
8.マタイもマルコも二人とも、「過ぎ越しの祭りの二日前」と、はっきりと日時が特定出来る記述
を、それ以前にしているので、そこからの文脈において、[種なしパンの祝いの「第一日」]という
一言を除く「仮説」を立て、〔私的〕解釈すると、全く齟齬は見られず、書かれた出来事がその
通りの順序で起こったと、事実を認められます。
マタ26:2二日たつと過越しの祭り(金曜日)になります。人の子は十字架につけられるために引き
渡されます。(そうするとこの日は、水曜日です。)
マル14:1さて、過越しの祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、~~。
(そうするとこの日は、水曜日です。)
9.この記述から金曜日午後3時の「十字架上の死」までを、3日間の出来事としてそのまま解読して
いくと、「最後の晩餐といわれる食事」が、「木曜日の普通の夕食」だったのであり、その食後に
キリスト・イエスが「聖餐・パンと杯」の儀式〔契約〕をして、新約聖書時代の「過ぎ越しの食事」
を成立させているのだと、ユダヤ教との霊的隔離を証明できるのです。
10.この時には、かえって「焼いた羊肉ではなく、主イエスの「からだを象徴するパン」でなければな
りません。だからこそ、伝統祭の「過越しの食事(金曜日)」が行われる前(木曜日の夕食)に、
主イエスがその権威を持って、ユダヤ人の弟子たちに授けたのです。←と解釈出来るようになりま
す。
11.現代の私たちにとって、矛盾としか読み取れない部分について、「第1日」が「もしや前日の誤訳?
」とする一つの仮説をたてて、霊的な義の筋が通る解釈を試みました。 それは、創世記1章で使わ
れている「ヨーム」というヘブル語が、「一日(24時間)」と訳されて、神様の創造の業が6日間
で成されたとする、間違った解釈が既に前例としてあるからです。
(別篇「1日と訳されたヨーム」参照 )
12. もしくは当時、「過越しの祭り,即ち 種なしパンの祭りの[備え日]」を、連続する8日間の「種なし
パンの祭りの[第1日]」と呼んでいたかもしれない可能性も、捨てきれないのです。
第31篇「肉体のとげの意味。」
1.パウロが言及している「肉体のとげ」について、古来、様々な解釈がなされて来て、今多くの
支持を集めているのが、「宣教に反対する人々の迫害」「彼自身の持病」などですが、いずれ
も書かれた聖句によって証明された内容ではありません。
2.彼は、「肉体のとげ」が自分に与えられたのは、自分の霊が第3の天に引き上げられたからだ
と、Ⅱコリ12:1~7節で経緯を説明していますが、それは「臨死体験」であり、その事実と
は「彼はその時一度死んでいる」ことです。
彼の霊が天に引き上げられるには死ななければならないからです。
3.それではパウロが「死んだ」とは聖書のどこに書いてあるのでしょうか?
4.使徒14章19,20節に、ルステラの町で石打ちの刑を受け、群衆は「死んだ」ものと思って
町の外に引きずり出したが、彼は立ち上がって(生き返って)町にはいって行ったと、著者ルカ
によって書かれています。
パウロ自身も、Ⅱコリ12:24節で、「石で打たれたことが一度、」とその事実を告白してい
ます。
5.「石打ちの刑」は公開処刑であって、死ぬまで石が投げつけられる残忍な殺し方です。つまり
検死官が「パウロの死」を認めなければ終わらない「死刑」でした。
「死んだものと思って」の文面を「死んではいなかった。」と解釈してはなりません。
6.そしてこの時、群衆から投げられた多くの石(死ぬまでの頭部への集中投石)によって、顔面
特に目がつぶされ、息を吹き返した後に重篤な後遺症となりました。
7.しかし神様・主は、一旦彼を死なせることで霊において第3の天にまで引き上げ、人には語る
ことが許されていない言葉を聞かせた上で、その後パウロを生き返らせました。それは異邦人
の中に新しい宗教としてキリスト教を確立させていく目的の為に、彼に対する絶対に必要な
「霊の取り扱い」だったからです。
8.顔面と目に受けた陥没骨折や裂傷による後遺症で歪んだ顔になってしまったパウロにとって、
その鋭い痛みこそが「肉体のとげ」となり、又、彼を見るガラテヤの人々に取っては、「試練
となるもの」であり、「心底から彼の教えを受け入れる信者を獲得する為」に、神様・主が必
要とされた「使徒となる霊」の選別の手段であったのです。
第32篇「パウロの驚愕『何だって?』。」
1.パウロが「何だって?」と手紙に書いているのは、彼が知らされた「コリント教会の実態」に
ついて、余りに異なった[彼らコリント人の解釈・理解度]にびっくりしているからです。
2.パウロの手紙には、6章までが「クロエの家の者からの情報」が引用されていて、7章からは、
コリント人が「パウロに出した手紙に書かれていた文章」と、それに対応 して「何だって?」
と、反論のきっかけを書き出しています。
3.その内容は、コリント人への「矯正指示」として捉えるべき教理です。
4.しかし、日本語聖書〔新改訳聖書その他〕には、この重要な4箇所の「何だって?」が訳し出
されていないので、どうしても、コリント人がパウロに送った手紙で伝えた「彼らの間違った
解釈」の引用を、パウロが教える正しい教えだと、間違った受け取り方をしてしまうのです。
5.その結果、一つの手紙の中でパウロが、まるで正反対の矛盾する意見を述べているような誤解
をしてしまう結果になります。
6.それはパウロが、男女の地位、平等、権利について、「男尊女卑の価値観を教えている」と
捉えてしまい、彼の教え,ひいては神様の正義と権威をおとしめてしまう「間違い・パラプト
ーマ」に陥っていることです。
7.聖書原典は全く誤りの無い書物であり、生ける神の言葉が書かれた書物ですが、日本語聖書は
重要な言葉の欠落や誤訳があって、霊的な導きを得られません。
8.だから私たちは、原典・少なくとも英語欽定版聖書によって、パウロの反応をこの手紙から
良く読み分けて、コリント人が主張している「間違った教理解釈」を知り、正しい神様の教え
とそれとを分別する必要があるのです。
9.従って、文脈上「何だって?」は必ず無ければならない言葉です。
第33篇「神の三一性と第3位格の聖霊。」
1.キリスト教の真理は、「子なるキリスト・イエス」を救い主と信じることですが、その「救い」
を企画し準備して下さった「①全能なる神」と、「②ことばなる神」を人の子イエスとしてこの
世に生まれさせた「③聖霊の働き」を、[霊の3つの本質]として理解し、しかもそれらが統一
された「一つの神」であると、その[三一性・みいつせい]を、正しく信じなければなりません。
2.そして私たちは、この「人に顕された神の姿」を、「三位一体」という言葉で表現しているの
ですが、聖書にはこの単語はありません。この言葉は、2世紀にカルタゴのテルトリアヌスが
初めて用いたとされていますが、その後、教会は「ニケア会議」でこの解釈を、「アタナシウ
ス信条」として公認したのです。
3.5世紀にアウグスティヌスなる人物が、15巻に及ぶ著作によって、「神の三一性」についての、
彼の解釈を発表しましたが、そのとき三位一体論が作り出されました。それは神,子なるキリ
スト,聖霊を「ペルソナ・位格」として、それぞれに独立性を与え、かつ権威の序列としなが
ら、しかも「一つの神」であるとしたのです。ここに本来の[三一性]から外れる、論理矛盾
が発生しています。
4.ですからこの解釈論は、真理ではなく仮説です。なぜ「仮説」なのかと言うと、「三位一体論」
の「3つのペルソナ・位格」が、「独立性を持たなければならない必然性は?」と、「唯一の
神」でありながら、「何故3位格でなければならないのか?」について、「聖書・みことばに
よる、霊的で論理的な証明」が出来ていないからです。
更に、「位格」という「必然的に上下関係を造り出す定義」によって、[全能の神の内面に序列]
があるとせざるを得ない論理になるのです。
5.その為、「独立性」と「一体性」について、論争が沸き起こったのですが、解決できる筈がなく、
だからこの欠陥を隠す為に、「人の理性では理解できず、ただ信じるしかない。」とまで言って、
正常な思考をさせないようにしているのです。
これが「三位一体論」の矛盾が引き起こす混乱と惑わしです。
6.教文館発行、「キリスト教大辞典,改定新版」452ページ、[三位一体]」の【教義的理解】に
は冒頭に、
『〈trinitas〉は厳密には三一または三一性であって,三位一体という訳語がすでに特定の教理的
立場を示していることは上に見たとおりである。』と書いています。
7.従って私たちが今、「三一性」を確認しようとするとき、既に[アウグスティヌスの三位一体
論]の土俵に上げられてしまっていて、「反論の根拠でさえ」「三位一体論の枠から抜けられ
ない」でいるのです。(三神論や様態論など)。そして異なる解釈は[異端]として排斥され
るまでに、刷り込みを受けてしまっています。
8.それならば、普遍性のある「三一性に基づく3位格解釈」はどうあるべきなのでしょうか?
キリスト教信仰において、神様が教えている真理は非常に単純なものです。教理論争をひき起
こしてまで、言い争わなければならない「難解さ」は、決してありません。「霊の導き」に従
うなら、素直な納得性があるのです。
9.A【ヨハ1:1 初めにことば(ロゴス)があった。ことばは神とともにあった。
ことば(言葉なる神・キリスト)は神であった(天における神としての同一性)】。
B【ヨハ4:24 神は霊ですから、(神と聖霊の同一性)】。
C【ヨハ10:30 私(子なるキリスト)と(天の)父(神)とは一つです。
(神とイエス・キリストとの同一性)】。
D【ヨハ1:14ことば(ロゴス)は人(キリスト・イエス)となって、私たちの間に住まわれた。
10.この4つの御言葉だけでも、神,子なるキリスト,聖霊の同一性が証明できます。
だからこれら3つの「位格と解釈されたもの」は、間違いなく[同位同格]なのであって、
[一神〈全能の神〉]の[霊の働き]の現れ方が異なっている丈なのです。
又、「独立した3位格」の集合ではありません。
11.聖書に書かれた、「神、主イエス」の「約束の言葉」は、全て「聖霊」によって実現するのです。
「聖霊」は、全能の神の[実現する力]です。そしてその成就において3つのうちのどれかが
「独自・単独で働いた」とは、聖書のどこにも書いてありません。従って「独立性」を定義した
ことが、根本的な誤りだと言えます。
12.「三一性」を模式図として表現するなら、一本の[三角柱]であって、それぞれの面が「神」,
「子なるキリスト」,「聖霊」に対応するのです。
そしてその全体像は「本質的に分離・分割出来ない一本の柱」であって、[全能の神]です。
これが誰でも納得できる論理的な[神の三一性]です。
13.しかしこの模式図が「実体」を表しているのではありません。[霊の世界]に「実体」はないか
らです。ただ「人の子となった[ことばなる神]だけが、一時期に「実体〈肉体〉」を持ち、
この世で神の愛を実行し教えました。
14.あらゆる先入観を除く解釈根拠は、「神の三一性」でなければなりません。
[全能の神]の「役割・機能」が3つの側面を持つのです。それは、創世記1章2節からの「天地
創造」の記述で理解できる通り、「全能の神の3つの役割・機能」が一体となって働いたからこそ
「万物が造り出された」のです。
創世1:2やみが大いなる水の上にあり、神の霊[実現する力]は水の上を動いていた。
:3そのとき、神[全能者の意志]が「光よ。あれ。」と[ことばなる神]によって仰せられた。
すると光が[霊・実現する力によって]できた。
15.神(みこころ),子(ことば[命令]),聖霊(力)は、創世記(過去)から黙示録(未来)まで
一貫して、協同して働かれて、唯一の[全能者]であることを、この世に知らしめているのです。
これが「三一性」です。
第34篇「日本語聖書の翻訳間違い。」
1.聖書〔御言葉〕を正しく理解しようとするなら、神の性格を全て学び取り、そしてそれを定規と
して当てはめ(神を正しいとし)て、読み込まねばなりません。
2.この時、読む対象の「日本語聖書そのもの」が、原典で表していた文意と語意から外れた翻訳を
しているなら、それを読む読者は当然に、「間違ったことを正しいと刷り込まれてしまう」こと
になります。
3.キリスト教についてのあらゆる知識を、「霊的且つ論理的」に理解せず、神様の性格・性質を正
しく捉えていないなら、それは神様の目から見て、「パラプトーマ・過ち」という「悔い改めな
ければならない」霊の状態になります。
4.従って、クリスチャンは「正しい知識」だと思っていても、知らぬ間に「間違ったことを正しい
として勘違い」してしまう」可能性に対して、そうならないよう、日本語聖書は殊更に、霊的に
読み解かなくてはならないのです。
5.これまでに発行されて来た、数々の日本語聖書の翻訳が、旧約聖書ではヘブル語、新約聖書はギ
リシャ語原典の、[霊的語彙]の厳密な言葉使いに沿っていない例が散見され、これらが日本のキリ
スト教が、「罪の悔い改め」ばかりに焦点を置く教理になってしまった、大きな原因です。
6. 聖霊の導きによって明らかになった、全能の神様の意志の事実を[御言葉の霊的解釈] として明確
にしました。これは人の解釈と、神様の視点との「違い」を明らかにする為であって、「霊的解
釈からの乖離」の教示です。
日本語聖書全体が抱える問題点[御言葉への誤解]を俎上に上げたのであって、決して特定の個人や
団体を誹謗中傷したり、名誉棄損する目的や意志は毛頭ありません。
主イエスを信じる者同士が共に手を取り合って、約束された「永遠のいのち」への道を歩む為
です。
7.2003年に刊行された新改訳聖書第3版は、その改訂された内容とその根拠を、インターネット
で公開されていますので、本書のテーマのために「例題として」引用させて頂きました。
新日本聖書刊行会に謝意を捧げます。