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全クリスチャンの『聖化』の為の必読書。

4巻 「義」と「神の義」の違い。 ISBN-978-4-909051-03-5
             価格    1480(本体+税+手数料)  B6版306ページ

12篇「「義」と「神の義」の違い。」

13篇「「聖餐式」の目的。」

アンカー 1

第12篇「「義」と「神の義」の違い。」

論旨A.

「義」について。

1.新約時代の私たちクリスチャンは、主イエスを救い主と信じる信仰「」によって、今度は

  神様の方から「神の義」であるとの評価を受けて、特別な扱い(祝福)を受ける存在になって

  います。

2.神様は通信簿を付けるように採点し、あなたの「聖化」を評価しているのではありません。

  神様はクリスチャン全員を、等しく「神の義」にして下さっています。ですから、「私はその様

  に認められた者だ。」として、自分の「意識と行動」を改革し、神様の見方に合わせて、(自分

  の)「」を確立していくのです。その「義の成長段階」がどんなレベルであっても、「そのま

  まのあなた」として、神様・主イエスは受け入れています。

3.しかし、日本の多くのクリスチャンは「神の義」の内容を詳しく理解していないので、神様・

  主イエスが本来求めているクリスチャンの行動を行っていません。それを神様は、「義と認め

  る者(信仰義認)」と、「義とみなす者」に分別して扱われます。

4.そして私たちは「義」という言葉の内容についても、正しく理解していません。

 「義」は「神の義」に対比されるものとして、自分の霊が神様に対して正しいか否かの状態を、

  自分で評価する尺度です。そしてその「義」は、3つのステップ・段階に分類されます。

5.自意識としての「義」は、イエス・キリストを信じて、その信仰告白(ロマ10章9,10節)

  をした時点からスタートするのですが、信仰生活を続けて行くうちに、その「義の段階」をレベ

      ルアップしていかなくてはなりません。

6.それをパウロは、「イエス・キリストを土台として、霊の建物を建て上げる。」と表現していま

  す。その「義」は自分が「造り上げていく」ものであり、「救いを信じている丈では達成できな

  い( 霊の建物は完成しない)のです。

      「信仰による行いとその結果」によって、天の父なる神様と主イエスに「栄光を帰す」ことで、

  達成するものです。

7.この教理を、ヤコブは彼の手紙の中で、「信仰の行い」として表現しています。

       神様への「契約の義務」を果たすことで、神様から「義と認められる」のですが、この「行い

  の結果により義認された立場」を、第3の義という自己認識にするのです。

8.これはマルティン・ルターが主張した、「信じることで得られる義(第2の義)」の状態で留まって

  いてはいけないからです。「信じるだけ」は入信条件なのであって、その次にこの義務を「果た

      す責任」と「その行動をすること」が「第3の義(その1)」として、クリスチャンに要求され

      て来ます。 これをヤコブが彼の手紙で教えています。

9.次に「血の契約」では契約者の一方が死ぬと、残された他方にとって、死んだ相手の血が自分に

  流れているのですから、この本質によって、自分が「死んだ主イエスに成り代わって」

  「主の責任・義務や祝福」を引き継ぐのです。つまり自分が「イエス・キリスト」として、「しな

  さい。」とマルコ16章で言われた指示を、その通り行動しなければならないのです。

10.この「死んだ主イエス」に代わって、「イエス・キリストになって(分身として)」その義務を

  果たす「責任ある立場」が「第3の義(その2)」として、クリスチャンに要求されて来るので

  す。これが「血の契約の本質」であり、

  今のキリスト教に最も欠けている論理的根本概念と教理理論です。

11.マルティン・ルターは、「信じて義となる(第2の義)」の教理から、「万人祭司」として

  「救われた者の行い論」を展開しましたが、何故そうなるのかを、理論化出来ませんでした。

  しかし今、その霊的根拠が「第3の義」として、明確になりました。

論旨B.

12.神の義」は、神様との新しい契約による「義務と祝福」の関係として、神様がクリスチャン

  をそう見て、そのように霊の取り扱いをしてくれるものであり、信じる人に誰にも均等に与えら

  れる約束です。しかし、人の側の信じ方次第で、受け取る祝福に違いや差が出てくるのです。

13.その内容は、クリスチャンが信仰によって、「義である者」とされるが故に、きわめてビジネス

  ライクに与えられる資格であると言って良いものです。

       何故なら新しい「血の契約」に基づく、祝福と義務の関係によるものだからです。

       そして次に、クリスチャンはこの与えられた「神の義」という資格を、自らのものとして使いこ

  なさねばならない立場に置かれます。何故ならこれは、「契約の義務を果たすために必要な道具

  だとして、人に与えて下さっているからです。

14.それなら「神の義」とは、何のための「道具」なのでしょうか。

       これは「血の契約」に基づく「祝福」なのだから、それに伴う「契約の義務」として、「神の義

  が持つ霊の権能」で「サタンとその仕業,悪霊に対して、『退け』と命令し」、「サタンに勝利

  し」「望む結果を現実にする」為です。

15.それは神様が創造の初めに意図したアダム「地上の支配者」の立場を、クリスチャンが再構築す

  る最終目的です。そしてその勝利を神様に捧げ、栄光を神様に帰すことがクリスチャンの「契約

  の義務」なのです。

16.新約聖書時代には、既に自分に与えられている権能「イエスの名」を使って、目の前に立ちふさ

  がる問題を自分でどかし、超越していくことを主イエスは求めています。

      しかしながら、残念なことに日本のクリスチャンは、ただ神様にすがりつき泣きつく祈りをする

  ばかりで、「神の義」とされた者としての行動をとっていません。それは「神の義」と「自分の

  第3の義」を正しく把握していないからです。その霊的事実は、聖霊を受けていないユダヤ教の

     レベルに留まっているからです。

17.そんな「契約違反」を繰り返しているなら、その義務への祝福の裏返しとして、「契約の呪い=

     打ち壊さなかったサタンの仕業」が、当然のこと「自由意志の結果」として、己が身に降り掛かる

     のです。これには神様も防ぎようがないのです。

.

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13「「聖餐式」の目的。」

1.聖餐式とは、教会の聖礼典であり、それは主イエスが〔わたしを覚えて行いなさい。(ルカ22:

  19)〕と言ったことを根拠にした儀式です。

2.その意味が何かを問うとき、歴史的に「パンと杯」は、主イエスのからだそのものだとする霊的

  解釈と、いやそれは象徴でありそのパンと杯に神性を求めるのは正しくない,とする、大別して

  2つの意見になっていました。

3.聖餐式に於いて、口に入れるのはパンやクラッカーの小片であり、又、多くはぶどう液(カトリ

  ックではぶどう酒)です。そしてそれらは、「ふさわしくないままで口に入れると、自分を裁く

  (Ⅰコリ11:29)」ことになる。と、使徒パウロは警告しているのです。

4.それでは、「ふさわしくないままで」とは何を指して言っているのでしょうか? 殆どの教会

  では、「(その教会の会員)信者」であるか否か,であるとし、聖餐式の列席者を「教会員」

  とそうでない人とを区別して扱っています。使徒パウロはそうすることを目指して言ったので

  しょうか?

5.それ以前に主イエスは、ヨハネ6:47~69節で、

       「:48 わたしはいのちのパンです。」

       「:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」      

   「:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼の

  うちにとどまります。」と宣言しています。→ 血の契約の本質です。

6.そして「最後の晩餐」と言われる夕食で、主自身のからだを「いのちのパン」になぞらえて

  食べさせたのは、神様の裁きが過ぎ越される「旧約聖書時代の救い」を終わらせ、主イエス

  との「いのちの関係=新約聖書時代・罪を清められた者」に入る為であり、それを主イエス

  自身の霊的権能で行っているのです。ほふられた「過越しの小羊(裁きからの逃れ)」として、

  ご自分のからだを例えたのではありません。

7.これによって、それまでの伝統祭(裁きの過越し)であった「焼いた羊肉を食べる」ことを超

  越して、「甦って昇天されたキリストであるイエス」が、弟子たちそれぞれの 身体に入って、

  彼らと一体化し、「永遠のいのちを持つからだになる」ことを、「擬似体験」させた のです。

       従ってパンそのものは、新約聖書の救いの霊的事実〔永遠のいのち〕の象徴です。

8.「杯」で象徴しているのは、「血の契約そのもの」です。11弟子は直接この言葉を聞いてい

  ます。 この「血の契約」が自分の身体に起こった「奇蹟」であることを、「覚えていなけれ

  ばならない」のです。

9.それは、血の契約を交わした間柄として、クリスチャンは「その人+イエス・キリスト」の、

  2つの血が流れる「新しく生まれ変わった者」になっているのを、再び思い起こし、信仰態度

  を修正する為なのです。

10.パンによって「(罪の贖いを超えて)主イエスと一体となり、永遠のいのちを持った」身体で

  あることを知り、杯によって「霊の権能・賜物を授かっている」者だと、自意識を「神の義」に

  することなのです。

 

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5巻。「アダムの原罪とは何か。」 ISBN-978-4-909051-04-2
              価格    1380 (本体+税+手数料)  B6版208ページ

14篇「アダムの原罪とは何か。」

15篇「神の創造した人アダムとエバ。」

16篇「サタンの囁き、神のようになる。」

17篇「善悪の知識の木といのちの木。」

18篇「カインは何故、殺人者として裁かれなかったのか。」 

アンカー 2

第14篇「アダムの原罪とは何か。」

1.「善悪の知識の木の実を食べたこと」が、「アダムの原罪」であるという、古来からのキリス

  ト教原点についての教理は完全な間違いです。

2.何故なら、創世記3:6節の記述を読めば明らかな通り、男アダムより先に女がその木の実を

  枝から取って食べているからです。

3.公正・公平で義なる神様の性格に基づけば、「善悪の知識の木の実」を「食べたこと」が

   「原罪」となるなら、女こそ「神様に対する原罪者」でなければなりません。

4.しかし、神様はそのようには裁いていないのです。神様がアダムに「原罪」があるとするのは、

  アダム自身がした「釈明の言葉」によって、その実を食べたことの「責任を神様に押し付けた」

  からです。

5.「善悪の知識の木の実」を「食べたこと」、すなわち「契約の義務違反」である「行為そのも

  の」は、女、アダム共に、神様への告白の言葉に従って赦され、更に神様が「衣」として二人

  に与えてくれた「犠牲の動物(の血)」によって贖われたので、神様に対する「行為罪」がな

  い者とされています。  (女がエバと呼ばれるのは、この事件の後 )  

6.女は、再び神様と繋がる「義」の霊的立場を回復しています。

7.男アダムも「木の実を食べたこと」の行為については赦されているのですが、「女から食べさ

  せられた」ことを、「《あなたが》私の側においたこの女が」と、「神様の責任にした」のが

  神様には赦せることではなく、「原罪・パラバーシス」として、アダムに背負わせなければな

  らなかったのです。

8.神様がアダムをエデンの園から追放したのは、アダムが「原罪」を背負ったのが直接原因では

  ありません。神様は、彼が陥った「不義」の状態で「永遠に生きないように。」することが

  第一義であり、「いのちの木」に絶対に近づけさせない為でした。

  「善悪の知識の木の実」を「食べたこと」への罰として追放したのではありません。

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第15篇「神の創造した人アダムとエバ。」

1.創世記2:22の記述から導かれる、「女(エバ)が、男アダムから取られたあばら骨一本から

  造られた。」という、伝統的な「縦列的創造の解釈」は、

  単にこの1節のみを取り上げて読解した為であり、 創世記1章から5章までの文脈と書かれ

  た言葉との整合を取っていない、とんでもない間違いです。

2.神様は、創世記1:27で同時に「彼ら・男と女」を創造したのです。

  神様はこの男女の双生児を「アダム」と名付け、男アダムと女アダムとが、常に「一体で行動

  する者」としたのです。

  創世記5章2節が、アダムとは男と女であると証明しています。

3.それは「地上を支配」させる為にと、「われわれに似せて」神様の性質を、[男女それぞれの

  特質]として、半分ずつ与えられた男アダムと女アダムは、

  二人一緒でなければ創造主が意図していた「地上を支配する神」としての完全性要件に合致し

  ないからです。だから必ず二人は一緒に行動しなければならなかったのです。

4.創世記2章で「神である主」は、「あばら骨」と間違って訳された「ツェラー・脇(の骨)」で

  連結されて離れられない彼ら二人の意志を受け、

  その「(連結)双生児」の状態から「ツェラー・脇 (を繋げていた何か)」を取り去り、男女を分離し

      たので、それぞれが独自の行動を取れる者となりました。 

  → 神様の創造の業として、2章で初めて女が創造されたのではありません。

  神様は1章で「創造する仕事とその立場」を終えているからです。

5.この時から、アダムは「男だけの名」に変わったのですが、1章の創造の当初には、「アダム」

  の本質が「男と女」であったことが完全に見逃されています。

  女がエバと呼ばれるのは、3:20節になってからです。

6.それは、神様が命名したへブル語「固有名詞・アダム」が、英語の聖書欽定版として翻訳され

  た時に、「man:人」という「個性を表さない名詞」に誤訳され、更にそれが「he:彼」とい

  う単数形人称代名詞に置き換えられたからです。

7.創世記1章から5章まで、「人」の創造について書かれた部分を、その言葉通り忠実に解読す

  るなら、「人」とは「男と女」とが同時に創造されて、その彼らが「アダム」と呼ばれたこと

  が明示されているのです。

      従って、「人」と訳された部分を「固有名詞・アダム」に置き換えて読み直すと、

  既 に1章26節の「人の創造計画」時点から「男と女」とが対等であり、平等に創造されている

  のが御言葉で裏付け出来て、霊の上でも正しいと理解出来ます。

8.全て聖書の記述をその言葉の意味するところを正しく解読することで、ここまで述べてきた論点

  を証明し、

  「女は、〔先に造られた〕男アダムから取られたあばら骨一本 から〔後になって〕〔男の助け手

  として〕造られた。」とする旧来の教義が、人間的な感覚で解釈されたものであり、

  「義」であり公正・公平なる性格の神様の性質を誤り伝え、 霊の上で冒涜していて「罪」であ

  ることを明らかにします。

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第16篇「サタンの囁き、神のようになる。」

論旨A.サタンが狙った相手は。誰に向かって語りかけたのか?

 1.現在普及している日本語聖書は、原初的に英語欽定版聖書を原典として翻訳されたものですが、

  その日本語に訳された聖書で、誰も気付かない又は問題視しない翻訳の間違いが有ります。

      日本語の文脈を正確に分析すれば正しく理解できるのに、何の疑問も持たれず、今までその

  間違いがまかり通って来てしまっています。

2.その問題の箇所は、創世記3:1,5節で、蛇が女を誘惑している場面ですが、ここで使われて

  いるその言葉は、前後の文脈から「あなた(単数形)」であるべきなのに、日本語聖書では

  「あなたがた(複数形)」と間違った訳され方になっています。

3.その原因は、英語の単語YOUには、表記上、単数・複数の区別が無い為です。

      それは、旧約聖書ならヘブル語原典、新約聖書ならギリシャ語原典からの翻訳でなければなら

  ないのに、翻訳元の原典が英語版であるが故の間違いなのです。

4.蛇であるサタンは、この言葉を誰に向かって言っていますか? それは「女一人」に向かって

  言っているのであって、「あなたがた」と訳された日本語聖書によって「男女二人」に向けて

  言っていると理解するのは、文法上からも間違っているのです。

  これは聖書の側の罪ですが、読者の方も正しい読み方をしていないのです。

5.その「あなた」という一人に向けて発した言葉を、「あなたがた」として複数の人に解釈を

  したことで、その結果、霊的にとんでもない間違った教理になってしまいました。

6.そしてその翻訳の誤りは、アダムの原罪は善悪の木の実を食べたからだ,というように因果

  関係を解釈したことの、理由付けにまでなってしまっています。

      世に広まった一般常識として、人類が神に対して原罪を負ってしまったのは、「アダムが善

  悪の知識の木の実を食べたからである。」と知られている通りです。

7.日本語聖書の翻訳の誤り「あなたがた」によって、あたかもアダムが《自分から木の実を取っ

  て食べた》かのように、思考が導かれていってしまうのです。しかし、創世記3章をしっかり

  読めば分かることですが、本当はそうではありません。(別篇[アダムの原罪とは]参照 )

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論旨B.「神のようになる」とは。

1.蛇であるサタンは人類に不幸をもたらす為に、男女の仲を裂く目的を持って、男アダムがそば

  にいるにも係わらず、女だけに向かって語りかけているのです。(女をエバと呼ぶようになっ

  たのは、善悪の知識の木の実を取って食べた事件の後です。3:20節)

 (別篇[神の創造した人アダムとエバ]参照 )

2.「女一人」に向かって語りかけられた「誘惑の言葉」だから、これが「男アダムが犯した

  原罪」とは直接的な因果関係はありません。

3.「神のようになる」というその内容は、今まで正統な教義として教えられて来た「霊である

  神の地位を乗っ取る」ことではありません。

4.「女」は、その時対等で互いに助け合う存在だった「夫」に対して、「神のようになる」とは

  すなわち支配者として、俗に言う「かかあ天下」になることを思い付かされたのです。

5.善悪の知識の木の実を取って食べた「女」は、自分が蛇であるサタンの言葉通りに「神のよう

  〔支配者〕になった」ことを確認・証明するために、さっそく「夫」に向かってその権限を

  使って、「木の実を与え食べさせた」のです。

6.男アダムは、突然強圧的になった妻の言う通りに、「与えられた木の実」を食べさせられた

  のであって、彼には自発的な「食べる意志」はありませんでした。

7.だから、彼は食べたことの釈明を素直には出来ず、神様に責任を押し付ける言葉を発して

  しまったのです。そしてそれが「アダムの原罪」となってしまいました。

  ( 別篇[アダムの原罪とは]参照 )

8.一方神様は、夫に対して「神のよう(支配者)になった女」の立場が、創造の目的(対等な

  互助者)に沿わず正しくないので、元の「平等さ」を取り戻す為に「彼は、あなたを支配する

  ことになる。創世3:16。」と、宣告しているのです。これを受けてパウロは、「妻は夫に

  従いなさい(夫をたてる立場に自らを置くように)。」と、夫婦の有り方として女性を諭して

  いるのです。男尊女卑ではありません。

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第17篇「善悪の知識の木といのちの木。」

1.「人」が神に絶対的に従うかどうかを試練する為に、「いのちの木」と「善悪の知識の木」

  との2本の木を生えさせて、「善悪の知識の木の実」を「食べてはならない。」と命令した

  と、解釈されている従来の教義は、神様の性質を根本的に見誤った 大変な間違いです。

2.全能の神は、創世記2章からは「神である主」となり、人の自由意志を100%尊重していて、

  何一つ制限していないからです。神様を否定することさえ許されて自由であることがその

  証拠です。(しかし、その結果責任は自分が負うのです。)

3.「食べてはならない。」のは、「園を耕し、守らせる契約」に付帯する義務条項であり、

  それは人の側の自由意志の範疇です。

4.神である主の意図は、人アダムが「霊的に十分成長した後」に「食べさせよう。」として、

  予め生えさせたものです。黙示録22:14節には「自分の着物を洗って、いのちの木の実を

  食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は幸いである。」と、義と認め

      られた人への約束が明記されているからです。

.神である主が予め2本の木を生やしておかねばならなかったのは、神ご自身が「義」であり、

   「法を曲げず」「正義の筋を通す」方だからなのです。

6.園をアダム(男と女)に「支配するように」渡しているので、その支配権はアダムに移って

  おり、もはや神様であっても譲渡した支配権の範囲に対して、勝手なことは出来ず、アダムの

  承認を求めなければならないとされています。

7.するとアダムの側で「いりません。」と、神である主の提案を拒否する可能性が否定出来ず、

  神様の計画がアダムによって完遂できないことになってしまうので、道理として事前に、

  創世記1章で[創造の業として生やしておかねばならなかった]のです。

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第18篇「カインは何故、殺人者として裁かれなかったのか。

1.この殺人事件は、主への礼拝のささげ物が原因で起きました。

2.神様が定めた礼拝の規定は、祭壇に清い動物を犠牲として捧げ、そこで「血」を注ぎだして

  罪の贖いを実現することでした。それは、アダムとエバの「善悪の知識の木の実」を食べた

  罪を、神様が動物の犠牲で贖ったことに由来し、以降、人の霊が神様の前に「義」となるため

  の、礼拝で必須な「手続き」になったのです。

3.この規定に反し、「穀物のささげ物」でも受け取るだろうとタカをくくっていて、しかも自分

  で捧げなかったカインだったから、2つの違反行為を主(である神)から否定されたことで、

  彼の自尊心が傷つき、「主に対して憤った」のです。

4.古来の教義では、主がアベルを「えこひいき」したからカインは弟に嫉妬し、憤りを抑えきれ

  なかったと語り継がれて来たのですが、カインが弟アベルを殺した理由は、「彼への嫉妬に

  よる激怒」ではありません。

5.又、神様の公正・公平で義を貫く性格を曲げた「えこひいき」などの解釈は、決して許され

  ません。主は礼拝の規定を守ったか否かでの公正な対応をしただけです。

6.「穀物のささげ物」で失敗したカインは、「主の忠告」によって「今度こそ正しく行おう。」

  と考えたからこそ、「主へのいけにえ」として捧げる為に、彼にとっての最善の動物を見つけ

  なければなりませんでした。

7.カインは自分の置かれた立場として、次に捧げるもので「自分への評価」が「義」とされ、

  更に自分の自尊心を満足させるには、アベルが捧げた最良の羊を上回る、最高の品質と清さ

  を備える動物でなければならないと考えるのは、自然の成り行きです。

8.しかし、アベルが「最良の羊」を捧げてしまったので、残っている羊は2番手の品質以下でし

  かなく、カインには自分が納得して捧げる動物が見当たりませんでした。

9.カインは、アベルがたった今、主へのささげ物によって清くされたのを思い出し、

   「清くなっているアベルこそ自分の為のいけにえとしてふさわしい」と決断し、野に出てアベル

  を羊のように殺し、その「血を注ぎだした」のです。

10.人間的な感情の激昂によって殺人に至ったのではないから、主は神と人との正しい関係である

  「義」を基準にして、カインを裁いています。

11.その裁きとは、「いけにえとされたアベル」の「血の贖い」によって、カインが犯した

  「殺人」の罪を赦し、「義(神との正しい関係)」であるとしていることです。

  その為、殺人した結果として、人間的には咎を負ってさすらい人とならねばならないカイン

  を、霊の上では「義」として彼を守るしるしを与えているのです。

12.神様は公正・公平で義である方ですから、この時存在していなかった「殺してはならない。」

  という律法で裁くことは出来ないのです。神様が人類に対してその律法を与えたのは、大洪水

  を逃れたノアとその家族に対してでした。

13.神様に似せてその性格を受け継いで創造されたアダムとエバには、元々、利己の為に「人を殺

  す」という概念はなかったのです。従って、彼らに「殺してはならない」という禁忌を与える

  ことは、神である主にとってかえって正しくないことなのです。

14.カインの子孫は、先祖カインが殺人に対する刑罰を受けなかったことで、主の教えをないがし

  ろにし、暴虐がはびこる世界にしてしまいました。

15.人間社会のこのありさまは、霊的にはサタンが勝利した完全な「不義」の世界であり、将来に

  キリスト・イエスを生まれさせる「義」の血統を守り継いでいけないので、神様はサタンの

  仕業を滅ぼす為に地上を大洪水とし、ノアとその家族によって、人間社会を再スタートさせな

  ければなりませんでした。

 

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6巻 「創世記の正しい霊的理解。」  ISBN-978-4-909051-05-9
​               価格    1280(本体+税+手数料)  B6版242ページ

19篇「天地創造とは。」 

20篇「一日と訳されたヨーム。」

21篇「夕方から一日が始まるナンセンス」

22篇「割礼の]意味。」

アンカー 3

第19篇「天地創造とは。

1.創世記1章は、太陽系第3惑星すなわち丸い地球そのものの誕生を記録した文章ではありませ

  ん。

2.創世記1:1節が始まる「原始地球」は、既に太陽の周りを公転し、又自転していました。

3.その原始地球表面は、全て「水に覆われて」「陸地」がなかったのです。

4.神様は「人を住まわせる為」に、「陸地」から創造し始めましたが、これを多くの人々が誤解

  し、「現在の気候環境を持つ丸い地球・第3惑星」を、宇宙の暗黒の中に造り出した記録と捉

  えています。 宇宙と太陽系惑星の知識を持つ私たちは、その知識の先入観で読み間違えてし

  まうのです。

5.「天」とは「大空」であり、成層圏までの空間(空気層)です。しかし、殆どの読者は、太陽

  そのものや月、星を創造したのだと、「天」という言葉を「宇宙」として誤解してしまってい

  ます。

6.その原因は、「神の霊が水の上を動いていた。」というそこからの視点に立たず、自分の意識

  が宇宙空間に飛び出してしまい、第3の天にある神の座から見下ろしているイメージを描いて

  しまうからなのです。

7.創世記の記述は極めて単純化された文章ですが、その意味するところは科学的に論理立てる

  ことが出来ます。その事実を本論で証明します。

  科学的且つ論理的な解釈によって、聖書とは信頼を寄せられる書物であり、そこで語っている

  神様の言葉は正しいと、確信を持てるようになります。

.荒唐無稽な神話であるとしたり、全てを6日(24時間×6)で作り上げたとする古来からの

  教義は、「創造の真実」を見誤らせ、全能の神の性質を歪め伝える過ちであり、霊的には罪と

  される「不義」の状態です。

9.神様は、人の理性で納得出来ないことを無理矢理押し付けてくることは、決してありません。

  全てが「義」すなわち筋が通って正しい方である神様だから、人のほうで矛盾と感じたり、

  疑問を持ったりしたら、それは読者が間違った読解をしているのです。

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第20篇「一日と訳されたヨーム。」

1.創世記1章で、神様の創造の業の区切りとして使用されている、「第1日」~「第7日」と

  訳されたへブル語「ヨーム」を、私たちは「1昼夜すなわち24時間」として捉えています。

  そのように教えられて来たからです。

2.「24時間」という概念に縛られて創世記1章を読解しようとする為、各段落の内容が、

  「1日」で完成した,と論理付けせざるを得ず、従って創世記は単なる神話・寓話であって、

  信じるに足りないとまで言われ、聖書を否定するまでになっているのです。

3.無神論者はこの考えを根拠として、神は信用するに価しない対象で有るとし、逆に極端な創造

  論者はその通り「1日(24時間)」でそれぞれの神様の創造が完了したと主張しています。

  そのどちらも神様の姿を正しく受け取っていないから、霊的に正しい態度ではなく、神様の

  目からは「過ち・不義」とされるのです。

4.創世記1章に書かれたそれらの「第○日」は、「24時間としての1日」ではありません。

  神様の各々の創造を記述している御言葉(文脈)からは、「24時間の1日」に限定する根拠

  は見つけられないからです。

5.へブル語「ヨーム」は、「1日」という主たる意味の他に、旧約聖書で「昼間」「太陽そのも

  の」「期間」「区切り」「特定の時期」などを表現する為に使われ、それらは文章・文脈の中

  での使われ方によって、「1日」とは別の言葉に訳されています。それらを総合した大意は

  「特定の概念で区切られた期間」です。

6.創世記では「ヨーム」毎に神様の行った創造が異なっているのだから、1つの意図・プロジェ

  クト・工程が完了して[夕があり]、次に移るための[朝があった]と、「終了」を告げる

  言葉であると霊的に理解するのが正しい姿勢です。

7.そのプロジェクト毎の、開始から完了までの「期間」はそれぞれ書かれた内容に従えば、

  「1日24時間」ではなく、人類が知り得ない「不可知な長さ」です。

8.神様のことば(創造主の命令)によって地上が「そのようになる」のは、「自然」が成すので

  あって、「水が引き」「地が現れ」「大気が澄む」気候変動や、創造当時の植物・動物が「地

  に満ちる」には、それらの現象、生殖・増殖のライフサイクルが必要とする、非常に長い年月

  を費やしているのです。

9.知り得ないことは分からないと素直に受け取る理性こそ、科学的な態度であり、且つ神様に

  対して正しい(義)とされます。

10.「日」という限定された期間を表す言葉ではなく、前後の内容を区別しながら不可知な長さ

  を含む意味合いの言葉として、例えば「区切り」などが相応しい訳語です。

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第21篇「夕方から一日が始まるナンセンス。

1.「一日」が夕方から始まる,という神学教理が、正統を自認する教派で説かれています。

  その理由は、創世記1章に書かれた神の創造の業の、それぞれの終了段階が、「夕があり、

  朝があった。第○日。」と、表現されていることを根拠にするからです。

2.そして、更に出エジ12:18節、レビ23:32節を引用して、「夕方から一日が始まる」

  ことの裏付けとしていると思われます。

3.しかしそこでの主の指示は、「夕方」という時刻を指定しているだけで、その時刻から「一日

  が始まる生活リズムとして定める[暦]」として、「永遠のおきて」を与えたのではありま

  せん。

4.「一日が夕方から始まる」という神学教理は、創世記1章に書かれた「こうして夕があり、朝

  があった。第○日。」という記述から、「ヨーム(ヘブル語原語)」という言葉を無理やり、

  「1日」であるとして正当化する理論付けをしようとして、「前提条件を24時間の一日」と

  した上で、解釈を展開しようとする間違いを犯しているのです。

5.聖書に書かれた「ヨーム」は「特定の意味による区切り/期間」であり、「瞬間」から「億年

  単位」にまで、その期間の長短が文脈によって変化している言葉です。

6.この世界中のどこの誰が、「今日も一日が始まる。」と言って、ベッドに入り眠りに着くで

  しょうか? これが正しい訳がありません。人の感性・理性では、一日が始まるのは日の出

  であり、夜明けを「今日の始まり」と言うのです。

7.主イエスの十字架の場面を記録した各福音書では、その出来事の時刻表示を、当時のユダヤ

  時刻で表していますが、それは朝(日の出、夜明け)をゼロ時に設定している数え方です。

  ゼロ時こそ始まりの出発時点です。

8.すなわち、「一日の始まりは、夜明けから」であり、人間の感性と一致する普遍的なもので

  した。日本でも明治以前の和時計は、この通りを表示していました。

9.聖書の御言葉で裏付けが取れない「夕方から一日が始まる」との解釈を、「創造主たる神の

  意志」だとして、まるで真理のように語る状況は、宣教に於いて聞く人に神様への侮蔑感を

  与えるだけです。そしてそれは私たち宣べ伝える側の罪となってしまうのです。正しくない

  ことを正しいとして語る「パラプトーマ・過ち」だからです。

 

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第22篇「割礼の意味。

1.多くのクリスチャンが、旧約聖書時代に神様が人に対して指示された、「割礼」の意味・目的

  をしっかりと認識出来ていません。

2.肉体上の「割礼」は、確かに旧約聖書時代(ユダヤ教)に必要でしたが、新約聖書時代に入っ

  た現在では不要な儀式です。しかし、「キリスト教として何故肉の割礼が不要になったのか」、

  その教理を歴史的経緯として、正しく理解していなくてはなりません。

3.その理由は、現在では「(コロ2:11)キリストにあって、あなたがたは人の手によらない

  割礼を受けました。~~~、キリストの割礼を受けたのです。」と、パウロは信仰による

  「心への割礼」を、教えているからです。

4. では何故私たちは、「信仰が心への割礼」だと結び付けなければならないのでしょうか?

  それは、肉の割礼を受けたユダヤ人が律法を守っていなかったこと,を戒めて、次のように

  書かれているからです。

    エレ4:4主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。← 心の割礼を受けよ。

    9:25~~~。その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。

       :26イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。

  使徒7:51かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち。← 肉の割礼を受けているユダヤ人

  に向けた批判。

  ロマ2:28~~~、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。

       :29~~~、御霊による、心の割礼こそ割礼です。

5.このように書かれているのは、イエス・キリストへの信仰告白によって、「血の契約」が成立

  するのですが、その時、肉体的に血を流すことがなくても、「心=たましい」に於いて、

 「血を流している」のだと、具体的なイメージを持つ為です。

.この学びの為には、創世記に逆上って「アダムの原罪」と、それに対する神様の取り扱いから

  調べ直さなくてはなりません。そしてこの時の判断基準として、神様と人との関わり合いは

  全て、[「血の契約」によってのみ「義の関係」を成立させている]のだと、論理的に理解

  する必要があるのです。

7.それでは何故男性だけなのでしょうか? 男性器に傷をつけるのは、「アダムの原罪(男だけ

  の罪)」を贖う「血の契約」を交わす為であり、肉体的に男特有の器官はそこしかないから

  です。

8.「割礼」はアブラムとの契約(創世記17章)によって始まっています。何故神様は、アブラム

  に割礼を受けさせなければならなかったのでしょうか?そして更に名前をアブラハムに変え

  させているのは?(別篇「洗礼名の必要性。」参照 )

9.割礼を受けた者は、「律法を守って行わなければならない。」のですが、それは「祝福を受け

  る為の〔自発的〕義務」なのであって、それを強制と受け止めることが「義ではない」ので

  す。その根拠は、神様は人の自由意志を尊重しているからであり、強制的に人に何かを押し

  付けることをしないからです。

10.しかし、「割礼」とは「神からの強制である」と、多く誤解されているので、それを前提と

  した解釈では「感情的な受け入れ」にしかならず、神様を「義の筋を通す公正・公平で義なる

  方である」との正しい理解をしていないから、「主なる神(旧約聖書)との契約関係」の知識

  とは言えません。

11.「割礼」は、神様に対して、[自分は罪人だ]と認識させる為ではなく、かえって、[恵みが

  与えられる資格]として捉えなければならないものです。

12.パウロは、「割礼と律法」によっては〔義とみなされる(旧約聖書の救い)〕だけであって、

  キリスト・イエスを信じる信仰で〔義と認められる(本当の霊の救い)〕のだと、ガラテヤ人

  の手紙で「肉体の割礼」を否定しています。

13.それは、「肉体の割礼」がユダヤ教であって、キリスト教ではないからです。

 

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