セオロジークライスト会の霊的目標
イエス・キリストを信じた時点で、神様との「霊の繋がり」が生じるのは間違い有りませんが、『永遠のいのちを確信』し、自分とこの世に『リバイバルを来たらせる』為には、〔罪を贖われた私〕という「救われた時の認識のまま」では、不十分なのです。
ヘブ6:1ですから、私たちは、キリスト〈メシヤ〉の教え〈教理〉の初歩の段階(十字架に
よる罪の赦し・第2の義)をあとにして前進し、霊的成熟という面で完全〈完成・第3
の義〉を目ざして着実に進もうではありませんか。(()内は当会注釈です。)
全てのクリスチャンに要求されているのは、『義』です。その義とは、『神様と霊の関係性が成立していること』の自己認識であり、それは即ち、私たち「キリストの救いを信じる人」の、『霊的立場の認識』が、神様の視点と合致していなければならない大原則です。それは「罪の囚われ」から一切開放されていることです。
繰り返しますが、それはあなたの、神様との『霊の関係性』を、神様の視点で「私はどう扱われているのか」と、『義の要件』に従って認識し直すことです。それが『心の刷新』であり、リバイバルの本質です。
十字架の死と罪の赦しによる、これまでの[神認識と信仰根拠]を、霊的観点からの聖書解釈によって刷新して頂きたく、主イエスからの教科書として聖書解説書をお届けします。それは天からの祝福を100%受け取って頂きたいからです。
霊である神様との関係を成立させるには、[肉体,魂(考え),霊]の3つで構成されている人間も、霊の価値観・判断基準で、聖書の言葉[祝福への約束]を解釈しなければなりません。
しかし日本の多くのクリスチャンとよばれる人々は、「自分の『霊的立場』について、この『霊の関係性』の知識」が、神様のそれ「神の子とされた義認と祝福」に至っていないので、この点を悔い改めて『自分の心を刷新』しなければなりません。
それが全てのクリスチャンに求められている、《聖化》と呼ばれる「義の成長」の本質です。
『悔い改め』なければならないのは、知識不足=[神様についての 勘違いの 知識・薄弱な 救いの根拠・御言葉(祝福の約束)に向けられた疑念]です。(キリスト教界全体の深刻な問題です。)
個人的には、あなたへの神様の取り扱いを「義の立場として霊的に受け入れ」、「理性でその根拠(契約の義務)を論理的に納得・確信し」、それを「聖霊の力[イエスの名]によって実行しなければならない」のです。
この本質に対して、2000年来、伝承されて来たキリスト教教理の中に、聖書の読み違いの解釈や、幾多の勘違いが存在しています。
その典型例が、クリスチャンが礼拝等で祈りに際して、「私は罪深く取るに足りない者ですが、」などと、卑下して告白する言葉です。
神様が、イエス・キリストを信じる者の「罪を贖い、赦して無かったことにし、[義認]して下さる」のに、その取り扱いよりも、自己卑下によって自分を「罪有る者です。」と告白することが、神様よりも自分の判断を正しいとする、とんでもない「勘違いの信仰」です。
何故なら、神様は 「1度赦した罪は2度と思い出さない方」だからです。 このエレミヤ31:34節の、-----主のみ告げ----- 絶対的宣言は、ヘブル8:12節、10:17節でも引用された、私たちへの神様の一貫した態度です。
ですから人間的な「謙遜」としては正しいのでしょうが、クリスチャンの発言としてはあってはならないことです。「マイナスの言葉」はサタンに掴まれます。だから神様の霊の判定では、神様に従っていない「罪・パラプトーマ」とされます。
霊的謙遜とは、神様の取り扱いを素直に受け取ることです。そしてそれを自分の信仰根拠にしなければなりません。それは、「私はイエス・キリストとの[血の契約]によって神の子とされ、聖霊の臨在と天の権威を戴いた勝利者である。」との、論理的な信仰告白になります。
神様の定めた「信仰の原理」では、口にした言葉がその通りに現実になるのです。
マタイ12:37あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、
罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。
何故なら、神様は徹底的に人の自由意志を尊重しているからです。その人の生きざまを強制することは決してありません。ただ、人がその意志を神様・主イエスに向けて、祝福を受け取ることを望んでいるのです。これはその人が死ぬ時まで続きます。
ですからイエス・キリストの十字架の死で達成された、この全人類の霊的立場(第1の義)によって、裁かれるのは唯一、「聖霊を冒涜すること」だけとなり、最後の審判で「イエス・キリストを信じなかったこと」を定規として、神様の意志に逆らった諸々の霊的事実が「赦されない罪」として裁かれ、永遠の死に落とされると書かれています。《← 被造物である人間の立場です。》
⇒ 何をしても自由ですが、全てに責任が伴います。この世の犯罪は刑に処せられなければ
なりません。この神様の霊の審判基準は、律法として与えられました。
ギリシャ語聖書原典に書かれた「悔い改めなければならないこと」は、クリスチャンにとって「パラプトーマ・勘違い・間違い」であって、それは「この世的な犯罪」のことではありません。クリスチャンならば既に、そのような罪からは決別した生きざまであると、神様は取り扱って下さっているからです(第2の義)。
しかし日本語聖書の翻訳間違いによって、「罪を悔い改める」ことを信仰の第1目的にしていたりするので、「私は罪深い者です。」と言うことが、「信仰深さの表現」だと勘違いしてしまうのです。(入信時点では正しい態度でしたが。)
しかし神様の霊の基準では、たとえ自分が「取るに足りない者」と思っていても、神様が「わたしの目にはあなたは高価で尊い。」と評価して下さっているのだから、それを素直に(幼な子のように)信じて、今度はその評価に値する者としての「信仰の行動」に出て、神様の栄光となる結果を実現しなければならないのです。
このステップ「自意識の変化とその行動」が[聖化]です。
このクリスチャンの成長には、「神と呼ばれる方の性格・性質」についての誤解した知識や、「霊的立場」の認識不足などを、正しい霊的知識によって『刷新』し、それまでの「卑下する自分」から『脱却』しなければなりません。ですから、「悔い改め」の意味が変わるのです。
クリスチャン一人一人が、『義認された清い者』として、聖霊の働きを実現させなければ、『リバイバル[栄光を帰す結果]』を到来させられません。
「キリストの身丈にまで成長しなさい。エぺソ4:13」と書かれているのは、いつまでも、入信した時の霊的状態「罪の悔い改め意識」のままで、「十字架と甦ったイエスにすがりつく」のを救いだとしていてはならないからです。(←第1の義と第2の義を混同した勘違い=霊的幼児として「憐れみを乞い求める」態度から抜けられません。)
神様はクリスチャンを「イエス・キリストの弟妹」として、[神の子の資格]を与えたい(第3の義)のです。これが救いの真理であり、神様の視点・判断基準です。
霊的観点からの聖書解釈によって、これまでの[神認識と信仰根拠]を改めて頂く為に、 全クリスチャンの『聖化』の為の 必読書として、
聖書解説書「パウロの目からウロコ」シリーズ1~9巻を、お届けします。