キリスト教の血の契約 2。
旧約聖書からキリスト教への経緯。
「血の契約」のそもそもの始まりは、神様がアブラムに命じた「割礼・血を流して決意を証明すること」です。そして更に「名前を変えさせて」います。「名は体を表すから」です。
創世17:1アブラムが九十九歳になったとき【主】はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わた
しは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおび
ただしくふやそう。」
17:3アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
17:4「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
17:5あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。
わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。(契約条件として、その祝福が
新しい名前になる。)
17:6わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。
あなたから、王たちが出て来よう。
17:7わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの
子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの
後の子孫の神となるためである。(← 現代のキリスト教徒もこの永遠の契約の対象者で
す。神様の定めは永遠不変だからです。)
17:8わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後の
あなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
17:9ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫ととも
に、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。
17:10次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あな
たがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けな
さい。(← 契約への絶対的忠誠を求めていて、その証拠として生命の象徴である血を
流すことを、必須条件にしました。)
17:11あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたが
たの間の契約のしるしである。
17:12あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなけれ
ばならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではな
い者も。
17:13あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなけ
ればならない。わたしの契約は、永遠の契約として、(旧約聖書時代の)あなたがた
(ユダヤ人)の肉の上にしるされなければならない。
17:14包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切ら
れなければならない。わたしの契約を破ったのである。」
17:15また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサ
ライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。」
17:16わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与え
よう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女か
ら出て来る。(契約条件として、その祝福が新しい名前になる。)
尚、この「割礼そのもの」は、イエス・キリストの十字架によってその目的(神の側につく者の証拠)を終了したので、現在では「割礼を受けること」は、反って神様の救霊計画(イエスの働き)への反抗=(十字架を否定する)不義になります。
だからパウロは「ガラテヤ人への手紙」で、「異邦人が割礼を受けた霊的間違い」を糾弾し、必死でユダヤ人にせ兄弟の惑わし「割礼」を拒絶させているのです。
**「ガラテヤ人への手紙」は、信仰初心者のガラテヤ人に「割礼を拒否させる為」に、仕方なく「契約」を連想しない言葉使いで教えようとしていて、それは極めて「初歩の教え」であり、彼の言葉「信じること」の意味(初心に留まれ)が、信仰の本質を語っているのではありません。[割礼を受けるな。]が手紙の主旨です。
(プロテスタント教理の始祖ルターは、ローマカトリックの霊的腐敗に対して、この「信じる」を合目的(恣意)的に「本質として」武器にしました。この主義主張をスタートとして、多くのクリスチャンが霊的幼児に留まる教理解釈が主流派である現代キリスト教になりました。)**
キリスト教も血の契約。
「ヘブル人への手紙」はユダヤ人に対して、キリスト教もユダヤ教と同じく、「神様との契約、それも血の契約である」ことを教えています。
ヘブ 2:16主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫(信仰者)を助け
てくださるのです。(← 契約による恩恵が永遠に続くから。)
ヘブ 3:6しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、
確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の
家なのです。(← 「血の契約」によって、イエス・キリストの血がクリスチャン一人
一人に流れているから。=神の三一性による。)
ヘブ7:21──彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次の
ように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられる
ことはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」──(← 「血の契約」によって、
イエス・キリストの血がクリスチャン一人一人に流れているから。)
7:22そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。
ヘブ8:6しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐ
れた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。
8:7もしあの初めの契約(モーセの律法)が欠けのないものであったなら、後のものが必要
になる余地はなかったでしょう。
8:8しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見
よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家(失われた十部族=異邦人)やユダの家と新
しい契約を結ぶ日が。
8:9それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日
に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないの
で、わたしも、彼らを顧みなかったと主は言われる。(← 旧約聖書の物語に通底する
神様の「不義への対応」=裁きの原因。←不信仰者に対する態度であり、「裁きの神と
解釈するのは、信仰者が持つべき概念ではありません。)
8:10それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われ
る。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。
(← 心の割礼)。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
ヘブ8:13神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て
古びたものは、すぐに消えて行きます。
ヘブ9:1初めの契約(律法)にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。
9:2幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ば
れる所です。
9:4そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入っ
た金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。
ヘブ9:12また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まこと
の聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働き
をして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった
その血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に
仕える者とすることでしょう。
9:15こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの
違反を贖うための[十字架の]死が実現したので、召された者たちが(永遠の資産の
約束を受けることができるため〉なのです。(← これが契約の条件。)
ヘブ9:18したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。(← キリスト教が
「血の契約である」ことを前提とした言い方です。)
9:19モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソ
プとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
9:20「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。
9:21また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。
9:22それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでし
ょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(←この規定に
従って、イエスは十字架で「いのちを差し出し」ました。)
ヘブ10:15聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。
10:16「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると主は
言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」
またこう言われます。
10:17「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」
10:18これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。
10:19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの
聖所(神の御座)に入ることができるのです。(キリスト教は神様との親子関係になる
血の契約だからであり、普通の契約ではないのです。「天の父なる神様」とは、遠い
存在への単なる掛け声ではありません。)
ヘブ10:29まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと
みなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
ヘブ12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた
義人たちの霊、
12:24さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語
る注ぎかけの血に近づいています。
ヘブ13:20永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された
平和の神が、
13:21イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あな
たがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがた
を完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありま
すように。アーメン。
このようにパウロは、クリスチャンは 自分の信仰とは「主イエスとの血の契約」であるこ
とを根拠にしなければならないと教えています。
旧約聖書での「血の契約」の実例。
Ⅰサム18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。
ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。
18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。
18:3 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。
18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さ
らに剣、弓、帯までも彼に与えた。(← ヨナタンはサウル家の王子なので、その立場
と権威を、ダビデに同等に与えたのです。←これが血の契約の祝福(=義務)です。
Ⅰサム 20:8どうか、このしもべ(ダビデ)に真実を尽くしてください。あなた(ヨナタン)
は【主】に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです。
(⇒【主】に誓った契約は、すなわち「命を懸けた「血の契約」です。)
Ⅰサム 20:14もし、私(ヨナタン)が生きながらえておれば、【主】の恵みを私に施してくだ
さい。たとい、私が死ぬようなことがあっても、
20:15 あなた(ダビデ)の恵みをとこしえに私(ヨナタン)の家から断たないでください
【主】がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」
20:16 こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。(血の契約の再確認。このとき
以降、サウル王族とダビデ家の社会的勢力・立場は逆転します。)
Ⅰサム 20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、あの人は殺されなければならな
いのですか。あの人が何をしたというのですか。」
20:33 すると、サウルは槍をヨナタン(・ダビデ)に投げつけて打ち殺そうとした。それで
ヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。
旧約Ⅱサム9章に書かれた、ヨナタンの子メフィボシェテへの、ダビデ王の祝福の行動の根拠が「血の契約の恩恵」です。
ダビデは青年の時期に、サウル王の子ヨナタン王子との血の契約によって、「ダビデ・ヨナタン」という人格に変わっているから、相手の「血の兄弟ヨナタン・ダビデ」の死後、当然の義務として、彼の子メフィボシェテを自分の子と同等に待遇したのです。この時、ダビデは王の立場にいたから、かつてのヨナタンとは逆転していますが、
きちんと契約の義務を果たそうとしています。
Ⅱサム9:1ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私は
ヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」(← これは単なる善意ではありませ
ん。ここでのダビデとヨナタンとは「血の兄弟=二人の同一人格(Ⅰサム18:1~4節
)」だからです。「血の契約」で読み直してみましょう。 )
9:1ダビデ・ヨナタンが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。
私は死んだヨナタン・ダビデのために、彼の子に(ヨナタンに代わる親として)恵みを
施したい。」(← ダビデの身体に流れるヨナタンの血が、ダビデに当然のこととして、
そうさせるのです。)
Ⅱサム9:7ダビデ・ヨナタンは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタン・
ダビデのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに
返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」
Ⅱサム9:13メフィボシェテはエルサレムに住み、いつもダビデ王の食卓で食事をした。
( 彼は父ヨナタン・ダビデの「契約の恩恵」を与えられ、王子の待遇を得ました。)
*このようにイエス・キリストを信仰する人が、自分の信仰の根拠を「血の契約」とするなら、誰であってもその人の内にイエス・キリストの血が流れているから、死ぬまで天からの「祝福は途切れない」し、死んだ後も、その人の子孫に「契約の恩恵」が続くのです。
これが「生まれ変わりの本質」であり、この関係性以上に確実な信仰の保証(祝福の確約)はありません。
*しかしこの祝福を「契約として正しく知らなければ」、祝福を受け取ることすら思いつきません。← これが多くのクリスチャンが、十字架(罪の赦し)しか知識を持っていないことの実態(第2の義)です。
メフィボシェテが自分を「死んだ犬のような私(Ⅱサム9:8)」と表現しているのは、父ヨナタンとダビデ王との「血の契約とその恩恵」を知らなかったからです。
もしメフィボシェテが父と王との「血の契約を知って」いれば、自分から名乗り出て、望むものを堂々と求めることができたのです。
→ この態度がクリスチャンの成長であり刷新(第3の義)です。
「神の子とされているのだから」天からの祝福を、当然の権利として主張出来るのが、「正しいキリスト教」です。
尚この時、「神の子とされたことを「神の養子」と主張する説」がありますが、それはとんでもない認識間違いです。神様の目には「独り子イエスの血が混ざり合うあなた」は、「養子縁組した誰か」ではなく、「イエス・あなた」という霊的実子なのです。
養子とは法律的に親子と認める関係性ですが、「血の契約」では法的処遇と共に、(実質の)血縁者になるのです。だからクリスチャンは、心から「天のお父さん」と呼べるのです。
この「イエス・キリストと同等に取り扱われる権限」を、自分の立場とするのが「信仰の根拠」であり、「信じること」の本質です。神様が「実子として」待遇してくださるのに、本人がその意志を否定し「養子だと拘る」なら、「神の愛」に対するこれ程の背きはありません。
このようにクリスチャンは「血の契約」を正しく理解して、その契約に基づく祝福を「神の義」として、知識に蓄えなければなりません。
そして次に、心から信じて契約の義務を「信仰の行いとして」果たさなければ、その効力は発揮されません。信じるだけでは、祝福を受け取れません。
この時「信じる」意味を→「十字架の死を救いの根拠にしている」のなら、入信したての初心者レベルで留まっていて、「血の契約に基づく主イエスとの一体性の確証がない」こともはっきりするのです。