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                   聖霊のバプテスマとは。

 天の父なる神様は、クリスチャンが「聖霊を授かること」を「聖化の手段」としています。天の権威を霊の力として用いさせ、サタンに勝利させる為です。

 

 聖霊を受けるとは、真理の御霊=真理を知ること「救いの論理性」を自分に当てはめて理解し実行することです。 この為には、「福音を聞いて信じる」だけでは不十分であり、新約聖書・旧約聖書を正しく読み解いて、救いについての「すべての知識、知恵、勝利の手段、サタンを封じる対処」など、神様との「正しい霊の関係性を自分から確立して、その結果として「助け主の力」を得て、

 → 御霊の賜物=救いの真理がもたらす「筋を通す義の結果を出すことです。

 

 憐れみによる恵みだと捉えて、「何かをしてもらう為の代行者」として、聖霊を「乞い求める」のではありません。それは霊的幼児が勘違いして、神様・主イエスを自分の召使いにしてしまう霊的不正です。

 神様が定めた救霊の法則は、あなたが →《自分の意志(言葉)と行動で、希望を実現させる》ことです。聖霊はその「あなたの信仰の行い」が必ず勝利になる為の助け主として授けられるのです。そしてその授与は、《契約によらなければ》与えられません。

 

 神様と人との霊の関係性は、契約によるのです。神様が定めたルールと違うことをして祝福を受けることは出来ません。つまり「主イエスに頼りすがる」のではありません。

 

 聖霊をどのように受けるのか、聖書を調べましょう。

 聖書「使徒の働き」では、イエス・キリストを救い主と信じて集まっていた人々に、轟音とともに、「炎のような分かれた舌に見える」聖霊が臨んだと書かれています。

 

使徒 2:1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 2:2すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体

   に響き渡った。

 2:3また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

 2:4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで

   話しだした。

     聖霊とは、人が受けたものとしての、御霊。

     御霊は、三一性の神性そのもの。神様の側の認識と表現。

 

 そして私たちは、これを「聖霊のバプテスマ」として理解していますが、多くの教会で、入信者が「水のバプテスマ」の典礼を受けた時に、《同時に「聖霊を授かる」という解釈》を根拠として、「聖霊を受けた」と教理化し、信仰にしています。

 

 しかし聖書にはどこにも、〔布教開始前のイエス・キリスト以外に〕、信者が「水(悔い改め)のバプテスマ」で聖霊を受けた」との記述はありません。

 イエス・キリストは「本来受ける必要のない「悔い改めのバプテスマ」」を、ヨハネから授かりました。その時、鳩のように聖霊がイエスの頭上に舞い降りて、それが聖霊であることが、神自身の声で証明されています。

 

マタ3:13さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンに

   お着きになり、ヨハネのところに来られた。

 3:14しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプ

   テスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

 3:15ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このように

   て、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、

   ヨハネは承知した。

 3:16こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開

   け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

 3:17また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれ

   を喜ぶ。」

 

 聖書を読む限り、「水のバプテスマに続いて聖霊を受けた」ことが確認できるのは、このイエス・キリストだけです。

 ここでイエスが聖霊を受けられたのは、彼が「神の独り子であり、アダムの原罪を背負っていない完全無罪性」によるからです。 この霊性に対し、世の人が「悔い改めて水のバプテスマを受けた」からといって、肉体はまだ罪の性質を持つので、即座に聖霊が与えられることはありません。

 つまり、聖霊を受ける要件として、「水のバプテスマ=悔い改め」が唯一絶対のものではないことです。むしろ逆に、現在の「水のバプテスマ」では聖霊を授からないと解釈すべきです。

 

 それでは「使徒の働き2章」に書かれた「聖霊のバプテスマ」は、その時集まっていた信者たちが、どういう条件下にあったから「受けられた」のでしょうか?

 

 彼等はヨハネの「水のバプテスマ」を受けていましたが、聖霊はまだ臨んでいません。しかし、死から甦った主イエスの遺言」を聞いて、その約束を信じていた人々です。

(十字架で死んだイエス(罪の赦し)を信仰の根拠にしているのではありません。)

 

使徒1:4彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れ

   ないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい

 1:5ヨハネは(あなたがたに)水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは

   聖霊のバプテスマを受けるからです。」(⇒ここで主イエスが確かに、「水のバプテス

   マ(悔い改め)」では聖霊が授けられないことを証言しています。「聖霊のバプテス

   マ」は全く別の次元の賜物だからです。)

   6~7節 省略。

 1:8しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして

   エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となりま

   す。」

 1:9こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくな

   られた。

使徒1:13彼らは町(エルサレム)に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。こ人々は

   ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパ

   ヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

 1:14この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちととみな

   心を合わせ、祈りに専念していた。

 1:15そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、~~~。

使徒2:1五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

 2:2すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体

   に響き渡った。

 2:3また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった

 2:4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで

   話しだした。(聖霊を受けた証拠)。

 

 甦った主イエスからの直接の、「聖霊授与の約束」を信じて待っていた[義の信者]に、天から聖霊が送られました。これから解る事実は「第2の義であっても、み言葉を信じきる誠実さ」が、信者に求められる要件だということです。

 

 つまり現代では、主イエスの遺言をそのまま「自分が成すべきこと」として、奇跡など「霊的働きを祝福として実現する霊性」を願い求めるクリスチャンが、聖霊を受けられるのです。

⇒ そしてその手段(典礼)は、聖餐式」を「血の契約の再認識として行うことです。十字架の死を追悼する為だけではないのです。

 

 そしてもっと大切な要件は、聖霊を授ける典礼を行う牧師が、福音である「主イエスの遺言」を実現できる信仰者であり、その霊性を認められていなくてはなりません。その霊性に立つ牧師が「手を置いて祈る」ことで、聖霊が臨みます。

――しかし聖霊の働きである奇跡を否定する牧師が、聖霊を導けることはありません。神様は義の筋を貫くお方です。

 

使徒19:1アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人か

   の弟子に出会って、

 19:2「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えら

   れることは、聞きもしませんでした」と答えた。

 19:3「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマで

   す」と答えた。

 19:4そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるよう人々に

   告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言った。

 19:5これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

  (← イエスの名につくバプテスマを受けたから、聖霊を授かる霊の立場になったので

 19:6パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語っり、

   預言をしたりした。(←「聖霊のバプテスマ」の授け方です。)

 19:7その人々は、みなで十二人ほどであった。

 

 ここでも「水のバプテスマ」では、聖霊が授けられることは無いと解ります。聖書は、神様の法則が誰にでも理解できるように、簡潔に書かれています。

 

 話題をペンテコステの時に戻しますが、もし「水のバプテスマ」で聖霊が授けられるのなら、その集会に参加していた人々の中に、既に聖霊を受け取った人がいる筈ではないですか。しかしその時、「聖霊を受けた人がいた」とは書かれていません。

 ですから、「水のバプテスマ」では聖霊が授けられないとする解釈を取ることが、神様に対する正しい霊的立場です。

 

 尚、旧約聖書時代では、神様の御心を行う召命者に対して、必要となったその都度、聖霊が与えられました。そしてことが成就すると聖霊は去っています。(ですからエリヤのように途端に弱気な発言をする態度になります。)

 生前の主イエスの布教活動に従った12弟子たちも、ペンテコステ以前の霊的状態は、この旧約時代と同じです。多くの奇跡の渦中にいながら、自分たちにその権威(聖霊)が備わっているとは、実感していない様子です。

 

 ペンテコステの日に、会堂に集まっていた信者たちは、霊の立場では、「第2の義」でしたが、しかしそこで祈っていた全員が「聖霊を受けた」ので、彼等は「第3の義」にステップアップしました。

 従ってこの時点から、自分たちの成すべきこととして、マルコ16:15~20節の「主イエスの遺言」を実行できるようになりました。

 

マル16:15それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた

   者に、福音を宣べ伝えなさい。

 16:16信じて(イエスの名の/イエスにつく)バプテスマを受ける者は、救われます。

   (=第2の義)そして水のバプテスマではない。)しかし、信じない者は罪に定められ

   ます。(← この文節は、福音伝道の結果についての言葉。)

 16:17(真の福音を)信じる人々には次のようなしるし(奇跡)が伴います。すなち、

   わたし(イエス)の名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、

 16:18蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人

   はいやされます。」(← 奇跡を信じる霊性「第3の義」の証明。

   信じることの内容が、16節と17~18節では霊的レベルが違うのです。)

 16:19主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。

 16:20そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともにき、

   みことばに伴うしるし(奇跡)をもって、みことば(霊的約束)を確かなものとされ

   た。〕

 

 現代キリスト教の多くの教派が、この「主イエスの遺言」を霊的に正しく受け取っておらず、実行できていません。

 奇跡を否定する教理解釈の教会は、聖霊の働きを否定していることですから、そこで聖霊を求めるのは、大いなる自己矛盾です。

従って「聖霊のバプテスマ」が実際にクリスチャンの上に臨んでいるかどうか、慎重に吟味しなくてはなりません。聖霊を授かるやり方を間違えているなら、自分では受け取った積もりでも、実際にそうなのかどうか、定かではありません。

 聖霊の働き(奇跡)を信じきっていなかったのなら、ただちに悔い改めて、正しい法則に従って受け直さなくてはなりません。

 

 ですからパウロが、聖餐式にあたってクリスチャン一人一人に、「自分を吟味しなさい。」と指示しているのです。

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