血の契約とは。
キリスト教は、イエス・キリストの「十字架で流された血による罪の贖い」を、信じるという意思決定(信仰告白)で、神様・主イエスに「義と認められる」のですが、しかしこの状態では、信じる者の側からの「神様との霊の繋がり」を、救いの根拠として実感することはできません。
信じているのが「十字架=罪の赦し」だけであれば、それは人が受け取る立場として受け身の関係性だからです。従って神様から選ばれて→ 信仰に入ったとする、勘違いの関係成立論が広がっています。これは求道者・入信初心者への初歩の教えとして、ギリギリ許容されますが、本来的には速やかに改めなければならない不義です。
何故なら神様は、人の自由意志を強制することは絶対にないので、「運命論のように捉える選び(予定説)」は、神様の性質を誤って宣教しているからです。人の頭に初めに刷り込まれたものはなかなかぬぐい去ることは困難です。
*神様は「信仰ある者」のその信仰を受け入れる(義として選び取る)であって、人が信じるのを先に、必須要件として求められるのが、「救霊の真理・信仰の原理」です。
そしてキリスト教は、全能の神様との霊の繋がりを「法的根拠」としなければ、「神の子とされた力強い信仰」になり得ません。「憐れみにすがる」のではありません。
それならばどうすれば良いのでしょうか?
答えは簡単。仲保者イエス・キリストと「血の契約を結ぶ」ことです。
主イエスと11弟子との血の契約。
マタ26:26また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂
き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからです。」
(← このパンは、翌日午後3時に十字架で(過ぎ越しの羊として)ほふられるイエス
の身体の象徴です。だからクリスチャンにとって、聖餐式が「過越しの祭り(羊を食
べること)=裁きを過ぎ越される(罪の赦し)の根拠」の儀式になります。十字架に
よってユダヤ教の存在目的は完了しました。)
26:27また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この
杯から飲みなさい。(杯から飲むことを「血の契約の儀式」としました。)
26:28これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるもので
す。」(← 「罪の赦し」は翌日のイエスの磔刑(の血)で達成しますが、ここでの
「血」の解釈は、文字通り「血の契約」のことです。)
マル14:22それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して、これを
裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」(イエス
を生贄の羊とする「新しい過越し」の象徴です。)
14:23また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲
んだ。
14:24イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流され
るものです。
ルカ22:19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われ
た。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれ
を行いなさい」
22:20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される
わたしの血による新しい契約です。
3人の福音書記者は揃って、主イエスが「聖別した杯(ぶどう酒)」は、「血の契約」の「血(の象徴)」であると、主イエスが言ったことを書いています。そして11弟子は「杯」を飲んで「血の契約」を交わしました。
更にパウロが、「血による契約を交わしたこと」を忘れない為に、「記念として行いなさい。」と指示しています。 現代クリスチャンが、信仰で受ける聖餐式の杯が「血の契約」の象徴です。
Ⅰコリ 11:23私(パウロ)は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主
イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、
わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新し
い契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで
主の死(によって「第1~第3の義」にされていること)を告げ知らせるのです。
後の神学解釈がこれを、パウロが「死=十字架で流した血」だと定義付けたかのように、聖餐式の式辞が読み上げられますが、元来、生きていた《主イエスが、「血の契約」と言っているのだから、それを忘れない為の典礼》を第一目的とすべきです。
主イエスが十字架に付けられたのは、翌日の出来事なので、最後の晩餐での発言の意味は、現代の私たちが「象徴として行う血の契約」を示したものです。
従ってこの杯(血)の意味は、「十字架の死で贖った生命の象徴」であると共に、「血の契約の成立=信仰に対する恵みの確約」を保証するものです。
「血の契約」を結べば、主イエスとクリスチャンとが「切ろうにも切れない絶対的な霊の関係性」が成立します。何故なら、お互いの血が相手の身体に流れ合って、その一度混ざり合った二つの血は、二度と分離できないので、そのクリスチャンが死ななければ終了しない霊的血縁関係になるからです。否、死んでもその子孫にまで祝福が及ぶ契約です。
これが神の家族、即ち「天の父なる神様、長兄イエス、弟妹クリスチャン」となる法的根拠です。だから天の祝福を「当然の権利として」受け取る霊的立場になります。
しかしこの事実を知識として知らなければ、求めることすら思いつきません。
この「契約によって関係性を成立させた」とする自己認識こそが、自分の信仰の根拠です。自分で自分を奮い立たせる必然性が顕れるからです。←→〔主イエスに頼りすがる〕という、「主体性の欠如」が神様の意志にそぐわない態度(不義)です。
クリスチャンとして「義を貫く」なら、自分の意志で契約を結んだとする自意識を持たなければなりません。何故なら「契約には義務が伴う」からであり、クリスチャンとして神様・主イエスに、栄光を帰す働きを「信仰の行い」として果たす義務を、明確に知る必要があるからです。
「血の契約」を信仰根拠にすえると、「聖霊のバプテスマ」を易々と受ける事ができます。地上で主イエスと霊的同位体になるのだから、三一性の真理によって神の宮となり、聖霊が当然にクリスチャンの身体に留まらなければならないからです。← お互いの契約の義務です。
この論理性に従って聖霊を求めてください。
尚この時、「下さい、下さい。」と物乞いのように、主イエスに頼りすがるのではありません。霊的立場の自己認識を「主イエスとの血の契約者である」として、地上における「神の三一性」の実現を願い、そしてそうなった自分であると告白し、「信じて行動する」のです。その第一歩を踏み出した時、聖霊が必ず力を出してくれます。←これが神様の約束です。
この霊の立場が第3の義の段階です。そして奇跡と言われる結果を生み出す信仰に成長します。聖霊を授からないのは、「血の契約」を根拠にしていないからだと言えます。
主イエスと「血の契約」を交わしたあなたには、三一性の真理によって、在天の父なる神様の霊が留まります。だから「神の宮である」と書かれているのです。
霊である神様は「遍く存在する」ので、信じる人のその信じる通りに存在を顕します。
第3の天(本拠)に存在すると同時に、地上のクリスチャンの霊と共鳴して、調和と一致が生じます。その結果、心に平安が与えられ人との平和が生まれます。
これが「霊である神」の顕現の仕方です。だからあらゆる所に神様の栄光が見える(感じられる)のです。
「神は何処にいるのか?」「なんで神は・・・?」と疑問を抱く人々には、当然神の存在が見えません。(逆にサタンの惑わしの霊を警戒しなくてはなりません。)
聖書記述の霊的事実は全て、「血の契約」によって順当に納得できるのです。
洗脳のように「根拠なく」信じるのではなく、「神様の保証」を得て下さい。
現代キリスト教の「血の契約」を体現すること。
聖餐式で「パンと杯」を受ける儀式を行うのが、「血の契約(の再確認)」です。
パンを「食べる」ことが、「罪の赦し」の追認識です。そして「杯を飲む」ことが、即ち、2者が一体に成ることの象徴であり、主イエスとクリスチャンとが霊的に一体(義兄弟)化して、「主イエスとの切っても切れない絶対的な関係性の確立」を、自他共に宣言することなのです。
この契約関係が「新しく生まれ変わる」ことであり、過去のない新しい人に「バプテスマ(染めかえられる)」事実です。ここには「罪人意識」があってはなりません。
従って、霊的新生者と自認するなら、その義の筋を通す為に「義の新しい名前」で呼ばれることを、みずからが主張しなければなりません。
「血の契約」と「新しい名前」は、セットであるべきです。
その本質は「イエス・あなた」という、過去と絶縁した新しい人格だからです。罪を包含した肉体で生まれた時からの名前でいい訳がありません。
洗礼名の霊的意義は、サタンに勝利する霊的権威を付与された人間となったことの証明です。従って、サタンに対してこそ知らしむべき霊的立場です。← 体を名で表すのです。
**ここで「救いの第一原則」に対して、クリスチャンの側で応ずべき「人の第一原則」を明確にしておきましょう。
この「血の契約による新しい霊的人格」を、本人の信仰として対外的に証明するのが「洗礼名」です。自分が「神の子である」と、霊と言行を一致させるためには、「名は体を表す」本質に自分を従わせなければなりません。
その「聖霊の賜物に基づく名前」が、神様に対するその人の義の筋の通し方として、第3の義に成長する為には必須な自己認識(アイデンティティ)です。
しかしプロテスタント教理の中に、この「洗礼名の重要性」が全く含まれていません。だから自分が「過去のない新しい人に生まれ変わった人」であると、誰に対しても〔神様にもサタンに対しても〕、筋が通った正当性を表明・証明できない霊的立場に居ざるを得ません。この自己認識の不当性が、信仰が成長しない主要原因の1つです。**
新約聖書では、弟子たちをはじめ多くの信仰者たちが、受けた賜物を表す「新しい名前」で呼ばれ直しています。
ですから誰でも「信仰の行い」の第1にすべきことが、生まれ変わりを証明する為の「新しい名前」です。主イエスは弟子たちの名前を、霊的賜物に合わせて新しく「呼び変えて」います。
漁師シモン→ ペテロ、ヤコブと兄弟ヨハネ→ ボアネルゲ、取税人レビ→ マタイ、
その他に、バルナバのいとこヨハネ→ マルコ、迫害者サウロ→ パウロなど。
(「パウロの目からウロコ」シリーズ、第7巻24篇「洗礼名の必要性」参照 )。
古い自分から「過去のない新しい人」になったとして、「クリスチャンの国籍は天にある」と信じるなら、天国人としての「新しい名前」を誰に対しても、堂々と名乗り、又、そう呼ばれるべきです。
この〔霊的な新しい立場の自分〕に対して、その時のあなたの態度がどうであるかで神様の栄光が顕されるかどうか(あなた自身の信仰)が評価されるのです。
ルカ9:26もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と
聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。
人からの評価を気にして、自分の信条(信仰による義の立場)の告白を恥じるなら、神様・主イエスもその人の態度を恥じる,と書かれています。(←「神の子」として生まれ変わった者である「新しい人格・自意識」に刷新されていないからです。それが→ 神様・主イエスに「恥をかかせる罪」だと宣言しています。)
このように神様に対し「自分の義の筋を通し」、人に対しては「新生の実証をする」ことの積み重ねで、「信仰の完成」に近付くのです。
神様・主イエスに忠実であろうとするなら、まず「新しい名前」とそれにふさわしい行動「聖霊の力の顕現」を示さなくてはなりません。