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*神様に対して栄光を帰す信仰の、その「人の義」は信じるレベル(関係性の密度)として、

 次の1~3のどれかの霊的立場になります。

 

当会では「」すなわち神様との霊の関係性の確立=「人の霊の正しさ」を段階に分類しています。そしてそのレベル毎の自意識として、神様への「義の筋を通す」ことを、霊的成長として明かにしています。この区分を知らないことが → 初歩に留まる信仰であって、霊性の成長の足かせになっています。

 多くのクリスチャンとよばれる人々が、自分の「救いの確かさ」を把握しておらず、自分の信仰を論理的に弁明することが出来ていません。

 それは「神様の性格」を正しく捉えていないからであり、自分の「信仰の根拠」に、

《 信頼する神様》が存在しないからと言えます。 具体的には旧来の旧約聖書教理や、巷での「神認識」が、苦難や試練をもたらす神,理性で納得出来ず人智では計り知れない神である,とする、「救いへの半信半疑」理解なので、絶対的な信頼を寄せていない/寄せられない結果に陥っている為です。ここから脱出しましょう。

第1の義 

 この世(罪の世界)に対して、キリスト教を始める為に神様が必要とした前提要件として、イエス・キリストの十字架の死で贖われた「全人類の」霊的立場です。全ての男性が負わされていたアダムの原罪(神への背反)の咎からの解放と赦し。被造物である人間との霊の関係性を取り戻す為に、神様が「憐れみ」によって(一方的に)修復した、《信仰以前の全人類の霊の[無罪性]の立場です。》

  つまり、イエス・キリストの働きとは、罪(サタンの支配下)の世(全人類)に対して、その「神への不従順」を、彼が自分の咎として身に受けて「死んで償い」、神との関係性を修復したことです。

 その霊的目的は、〔始祖アダムが園で神への罪を犯す前の関係性に戻したこと〕であり、まだ(神様との正しい関係性)になっていない人類に対して、「憐れみ」によって、全ての人に公平・横並びに、「救いへの道(霊的な正しい関係性への手続き)」を与えたことです。

 

ヨハ ネ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、

   の罪を取り除く神の小羊

ルカ 5:31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病

   人です。 5:32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせる

   ために来たのです。」

Ⅰコリ 15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであっ

   て、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たち(全人類の霊に負わされ

   ていた)原罪のために死なれたこと、 15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すと

   おりに、三日目によみがえられたこと、

ヘブル 9:28 キリストも、多くの人々(世)の罪を負うために一度、(十字架で)ご自身をさ

   さげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々(クリ

   スチャン)の救い(携挙)のために来られるのです。

 

 ですから、このイエス・キリストの働き(十字架の目的)の対象者が、世の人々(まだ信じていない人々)であるのは明白です。

 神(創造主)の基準として「信仰以前ながら、〔サタンの支配からの開放(原罪がない者)〕とする霊的関係性」を確立して、すなわち《誰であっても直ちに神様のもとに立ち返られる為の「平等な前提条件」》を全人類の前に置いたのです。

 

 これが神様の、「罪人に対する憐れみ」として、独り子イエス・キリストを十字架につけた目的であり、「良い知らせ(罪の赦し)」として福音伝道することの根拠です。

 この人類の立場の変化が第1の義であり、それまでのサタンの支配下にあった不義の時とは、霊のフェーズ・位相が全く異なるのです。

 それは神様が人の自由意志を尊重されることです。(心で思い口で言ったことが実現する霊的立場)。

 

 その「罪の赦し」は「マタイ12:31聖霊を冒涜すること以外、どんな罪も(霊の上で)赦されること」ですが、―― その真理は、全てを人の自由意志の結果とするためです。―― しかしキリストの働きを信じない(聖霊を冒涜する)ならば、最後の審判で裁かれる立場です。

 

《 尚、この世的犯罪は、加害者は全て結果責任を負わなくてはなりません。それが「律法が永遠に全うされること」です。人類愛だからといって社会システムが悪を赦したり、刑罰を減免したりするのは、神様の意志に逆らう罪です。悪は排除し​なければなりません。

 加害者の罪を赦せるのは唯一、「犯人を赦します」という被害者のアガパ愛の意志のみです。ここを多くのクリスチャンが勘違いしています。》

 イエス・キリストは次のように「律法の権威・有効性」を宣言しています。

マタイ5:18まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画

   でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(人類の倫理規範の正し

   さの判断基準は遠に変わらないと主イエスが宣言しています。)

 

 では何故「第1の義」なのでしょうか? それは原罪を背負ったサタンの支配下のままでは、人は自由意志でイエス・キリストに近づけないからです。必ずと言って良い程、サタンが試練で攻撃して来るので、信仰に入ること自体が非常に困難な挑戦になります。

 そしてその入信の為の霊の戦いでは、通常、人は支配者であるサタンに勝てません。

(旧約時代の清めの儀式は一時的な「見なしの義(罪が覆い隠されだけ)」であり、だから常に「悔い改め」が必要だったのです。)

 

 従って誰でも信仰告白(意志だけ)によって、簡単に神様の陣営に入れるようにする為に、

〔イエス・キリストの十字架の死による原罪の贖い〕によって、《信仰以前の段階で、人類全ての人々》が「第1の義」〕とされているのです。

 これが神様の公正・公平な論理性=憐れみによる条件設定(十字架の死)であり、この世に対する「福音の呼びかけ」の救霊定理です。

 

 創造神はどんな人の自由意志をも徹底的に尊重されるので、キリスト教をキリスト教たらしめる為にこそ、絶対必要な「全人類平等の霊的基礎・無原罪の前提条件」なのです。

次に信仰に入る/入らないのも、その人個人に任せられており、定められた運命なのではありません。 更に背く者がサタンの支配下に戻るのも、その人の自由(意志)です。

 

 この「全人類の霊の立場が無原罪にされた事実」を証明するのが、歴史的時系列表現である

西暦元号が、BCからADへと変化したことです。

 信じたクリスチャンだけが「救われる(次の第2の義)」という、巷の解釈は正しいけれど

も、それならばこの地球規模の時代呼称の変化にはなり得ません。

ですから神様の意志として、個々人の信仰以前の霊的取り扱いであることも、はっきりするの

です。

 

第2の義 

 第1の義の立場を原点として、そこから個々に霊的覚醒で始まる信仰の世界。《十字架の死による罪の赦しと贖いを達成したイエス・キリスト》を、救い主と信じて信仰告白した人が置かれる「神様の陣営につく者として新生した」霊的立場です。

 しかしパウロが霊的幼児と指摘している〔罪の赦しだけを信じる初心者信仰〕=「罪の赦し」の信仰告白と「水のバプテスマ(悔い改め)」だけで、まだ聖霊を受けていない信仰レベルの霊性。プロテスタント教理の主流派。

 

 十字架の目的は「罪の赦し」であって、聖霊を受けることへの論理的根拠が備わっていないので、「信じたレベルに比例した祝福を契約」としている神様が、その救霊基準通りに「罪の赦し」に置いてくださった立場。従ってサタンに勝利すると約束された勝利者には到達していないと言うべき状態です。何故なら、まだその「勝利の定理」を御言葉から学んで自分の知識とし、告白の言葉にしていないからです。

 

[あなたが信じ告白した通りになる]のが信仰の定理です。だから「救われた者の行動=神の義」を実行できるようになる為には、⇒「信じる」内容が「十字架による罪の赦し」から、「神の子とされる霊的論理性」に変わらなければなりません。

 そして信じる為には学んだ知識の納得性があることが必須要件です。その知識を熱心に聖書から学び取らねばなりません。

 その納得性とは、「神様から発生した論理的な根拠であること」です。人の知性だけで

どんなに崇高な概念を語っても、神様の保証がないなら、簡単にサタンに惑わされます。

 

第3の義

「血の契約」の論理性によって、自らイエス・キリストの血の兄弟(代理者)として、「神の

」と「イエスの名」による命令で、奇跡と呼ばれる結果を起こす霊的立場をとる自意識。=「聖霊のバプテスマ」を受けている成長したクリスチャンの霊性です。

 聖霊が「契約による祝福」として授けられるから、マルコ16:16~18節「主イエスの遺言」を実行/する意志を持つ者。《「血の契約」を根拠として最後の審判では、主イエスと共に裁く者として席に着く。← 裁かれないことの霊的根拠 ヨハ3:18。》

 ――霊・肉における勝利者。天に凱旋することが保証された信仰――

 

 クリスチャンは、このうち2~3のどの段階に自分が居るか、「自分が作り上げた信仰」をしっかりと認識して、更に「キリストの身丈にまで」霊的成長を目指さなければなりません。

神様は「信仰の定理」として、人の自由意志を実現させようとしているので、⇒主イエスの血によって[あなたの信じた通りになるように]と、成長を促しているのです。

 それは御言葉の約束の実現に対して、「どれだけ神様に信頼をよせているかの度合い」のことです。そしてそれは、正しい知識を持つことが必須条件なのです。

 

 ここで言いたいことは、《教会の現状》として、未信者を信仰に導く伝道アプローチとしての、「十字架の働き〔第1の義〕」は全く正しい認識だけれども、一旦イエス・キリストを信じた人〔第2の義〕にとっては、次の霊のステップ〔聖霊の働きを実現する第3の義〕に引っ張り上げる「神様の意図としてのキリスト教」ではないという現実です。

 

 この「第2の義」に停滞して、「第3の義」に至っていないことが霊的幼児であると、パウロは《 ヘブ5:12~6:3節 》で苦言を呈しているのです。

 

 

 それは「十字架の罪の赦しと贖い」の教理段階では、教会がクリスチャンに〔「神の義」を実践する信仰を自分の喜びとして行うところまでに、「聖霊の力を実践する権威」を授けられない〕からです。

  → **十字架の目的には、神様が聖霊を下さるその保証と根拠が備わっていません。

だから「十字架は初歩の教え」なのです。より多く霊的祝福を受けたい人は、聖書を学んで知識を得なければなりません。キリスト教は自由意志の行動の結果です。**

 

*連綿と続いてきたキリスト教が、このように「十字架を根拠にする入信条件の知識」に留まっているから、聖霊を受けたら「イエス・キリストと同じ働きをし、更に大きいわざをなす」と約束されている聖書を信じきれないでいます。

 

ヨハネ14:12まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行

   うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行く

   からです。

 

 それどころか聖書を霊的に読み解かない結果として、「現代には奇跡は起きない。」とか、「医療が発達したので、癒しは不用だ。」などと、神様の「永遠の救い(聖霊の働き)」に背く告白をしてはばからない不義を主張するのです。

 これはイエス・キリストを信じると言っていても、聖霊を否定することにほかなりません。すなわち「神の三一性」を否定しているのです。

 

 その態度は、聖霊のバプテスマ」を授かっていないことを、みずから証明しています。十字架の意義〔罪の赦し・贖い=第1の義〕だけを、いつまでも信仰の根拠にしているのであって、「敬虔さを示そうとして罪の悔い改めのつもりで、いつまでも「私は罪多き者です。」と告白することが〔的外れ〕であることが分かっていません。

 ⇒ その真理をつかみ取っていない解釈が、霊的間違いである」と悟っていないことにおいて、⇒ガラテヤ人が 割礼に惑わされたことと同じであり―― パウロが「ガラ3:1節愚かなガラテヤ人。」と手紙に書いた知識レベルと一緒です。

 

*クリスチャンならば、霊的立場が第2の義になっているのだから、悔い改めの内容が

第3の義に至らない自分自身の未熟さ」に焦点を定めなければなりません。「罪の悔い改め(入信初歩の霊性レベル)」から卒業しなければならないのです。

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