パンの意味するもの。
イエス・キリスト、いのちのパン。
聖餐式は、パンによって「(罪の贖いを超えて)主イエスと一体となり、永遠のいのち
を持った」身体であることを知り、杯によって「霊の権能・賜物を授かっている」者だとして、自意識を「神の義」にすることなのです。
この目的の為に、初めに口にするパンの意味は、《自分がイエス・キリストを救い主と信じる者であることを、自身に認めさせ更に公けにする》ことです。神様は「血の契約」によって祝福を与える相手が、真剣な信仰者であることを必須要件としているからです。
ヨハネ6:29~66節の、主イエスの「パンの例え」の説話によって、救いの霊的真理を悟れない多くの者が、イエスから離れ去りました。
残った少数の弟子たちが、真のクリスチャンです。そして彼等が聖餐を受けました。
長くなりますが、主イエスの「弟子の振るい落とし・選別」を確認しましょう。
主イエスの「パンの例え」の本旨は何か?
ヨハネの福音書6章の記述は、5千人の給食の奇跡に始まって、弟子イスカリオテのユダの脱落予告で終わっています。これは「弟子の霊的訓練」と、「真の信仰者の絞り込み/選り分け」を記録したものです。
それは残った本当の信仰者のみを直弟子とし、最終的に「血の契約を交わす為」に、厳しい《神様への忠実度》テストをおこなったのです。霊的感性に満たない者は自我によって
反発し去っていきました。
何故ならその文脈の途中で、主イエスが自分を「天からのパン」に例えて、「いのちのパン」と言い、「自分の肉を食べ、血を飲まないと天に入れない。」とまで、人の常識では納得できないことを宣言しているからです。→ 信仰として霊的に受け入れない者は離れ去りました。
ヨハ6:26イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あな
たがたがわたしを捜しているのは、しるし(奇跡)を見た(ことによる信仰)からで
はなく、パンを食べて満腹(一時的充足)したからです。
:27なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働
きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわ
ち神が認証されたからです。」
:28すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでし
ょうか。」
:29イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者(イエス)を信じるこ
と、それが神のわざ(天からの祝福としての救霊手段)です。」
:30そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、し
るしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
:31私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼(モーセ)は彼らに天からパンを与
えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」(← 証拠を要求しました。)
:32イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセは
あなたがたに天からのパン(永遠の霊的いのち)を与えたのではありません。しか
し、わたしの父は、あなたがたに天からまこと(霊的いのち)のパンをお与えにな
ります。
:33というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与える者(イエス・キリ
ストそのもの)だからです。」
:34そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください」
ここで実際のパンを求める聴衆と、主イエスが語る霊的満たしとが、認識のずれとなって広がり、信仰として受け取るべき教えに反発が生じ始めました。
6:35イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して(霊に)
飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して(霊に)渇くことが
ありません。
:36しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに
言いました。
:37父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのとこ
ろに来る者を、わたしは決して捨てません。
:38わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わし
た方のみこころを行うためです。
:39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたし
がひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
:40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことで
す。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(← 人
の生涯での究極の希望です。)
:41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたの
で、イエスについてつぶやいた。(← もはや信じていません。)
:42彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイ
エスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
:43イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
:44わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり(← 信仰告白によって認められること
が条件)、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にそ
の人をよみがえらせます。
:45預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、
父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
:46だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を
見たのです。
6:47まことに、まことに、あなたがたに告げます。《(イエスをキリストとして) 信じる
者は永遠のいのちを持ちます。(← 救霊の第1原則です。)
:48わたしはいのちのパンです。》(← キリスト教救霊原理(生きること)の究極の例え
です。)
:49あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
:50しかし、これ(イエス)は天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがない
のです。(← イエス・キリストを通して霊的に神様と繋がるから。)
:51わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠
に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの
肉です。」
6:52すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べ
させることができるのか」と言って互いに議論し合った。(← 彼等は霊的感性を全
く持っていません。信じることの例えとして理解できないのです。)
:53イエスは(信じようとしない)彼らに(例えで)言われた。「まことに、まことに、
あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがた
のうちに、いのちはありません。
:54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは
終わりの日にその人をよみがえらせます。
:55わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
:56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼の
うちにとどまります。(← 絶対的関係性の成立を保証しています。)
:57生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる
者も、わたしによって生きるのです。(← 霊の世界の真実を語っています。)
:58これ(わたし)は天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだよう
なものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
:59これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたこと( 聞くには聞く
が悟れない真理)である。
6:60そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことば
だ。そんなことをだれが聞いておられようか。」(← 離れ去った者の証言です。)
:61しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言わ
れた。「このことであなたがたはつまずくのか。
:62それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
:63いのちを与えるのは御霊です。肉(実際の食べるパン)は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのち(に至る信仰の例
え)です。
6:64しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」──イエスは初めから、信じ
ない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである──
:65そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころに
よるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったので
す。」
:66こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスととも
に歩かなかった。(← キリスト信仰への試練/霊的ふるい分けの結果が出ました)
ここまでの記述の通り、多くの信者たちが抜け落ち、かなりの弟子たちもイエスの元を離れ去りました。この霊的必然性は、これからキリスト教を布教していく為には、「真の信仰者」だけを集めなければならなかったからです。
こうして主イエスが必要とした「真の信仰者」の霊の選抜は、
-
これ(イエス)は天から下って来たパンです
-
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
-
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。という、
世の常識では受け入れられない言葉によって、
それを霊的感性で理解した信仰者のみが選び出されたのです。それが十二弟子でした。
6:67そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うので
はないでしょう。」
:68すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。
あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
:69私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
●最後の晩餐のテーブルで、主イエスが「これは私のからだです。」と言ってパンを裂いた時、11弟子は「ヨハ6:59 カペナウムの会堂で話されたことば」を思い出したに違いありません。そしてあの時の「パンの例え」はこのこと(血の契約の為の真の信仰者の選別)だったのかと、納得出来ました。
6:70イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を〔霊性に優れた信仰者と
して選んだ〕のではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」
:71イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十
二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。
この「パンを裂いて食べた後」、更に、杯を「私の血による新しい契約です。」と差し出されているので、彼等は、主イエスとの「血の契約」を交わしました。
**パンを食べることが象徴する「主イエスの働きを信じること」によって、⇒「血の契約」を交わす必要要件(真実の信仰)を満たすことになり、次に主イエスの血を象徴する杯を交わして、実際に主イエスとの「血の契約」が成立し、「霊の関係性が一体化(確立)」したことを体験したのです。
この事実こそ、絶対に揺るがない「信仰の根拠」になりました。
現代キリスト教においては、聖餐式の「パンを口に入れる意味」は、「主イエスの過越し(罪の赦し)の犠牲」よりも、むしろ主イエスが例えた言葉通り、「《主イエスは天から下った神の子である》と信じることの公的相互確認」として認識するのが適切(成長に合わせた知識)です。**