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 セオロジークライスト会は、キリスト教信仰の真理を、[血の契約]による聖霊の臨在とその働きとして、聖書を霊的に且つ論理的に解析し、義=「心の刷新と行動結果」であることを、文書によって明確にお伝えする、主イエスの弟妹です。奇跡を体現する純福音信仰です。

セオロジークライスト会は、聖書の御言葉を霊的に説き明かし、聖霊の働き即ち奇跡を体現する信仰に成長するよう、神様の「救霊目的とそのシステム」を、純福音の真理としてお伝えします。

  2000年来、キリスト教が待望している『リバイバル』を呼び起こす為に、クリスチャンであるあなたの、『心の刷新』を提案します。

 それはあなたの神様との『霊の関係性』を、神様の視点で「私はどう扱われているのか」と、『義の要件』に従って認識し直すことです。

 神様・主イエスが天で準備した全ての祝福を受け取る、キリストの身丈にまで成長したクリスチャンになる為の、「信仰の根拠を確保して頂きたく、純正キリスト教(=宗派を超えた真理)の知識を、聖書解説書としてお届けします。

       

詳約聖書「ヘブル人への手紙」

ヘブ6:1それゆえ、私たちは、キリスト〈メシヤ〉の教え〈教理〉の初歩の段階(十字架による罪の赦し
   と贖い)をあとにして前進し、霊的成熟という面で完全〈完成〉を目ざして着実に進もうではありま
   せんか。もう一度、死んだわざ〔律法・形式主義〕の悔い改め〈放棄〉や神〔にあなたがたを立ち帰 
   らせた〕信仰、

【NKJV】Heb
 6:1 Therefore, leaving the discussion of the elementary principles of Christ, let us go on to 

      perfection, not laying again the foundation of repentance from dead works and of faith

      toward God,

 何故パウロはこのように言うのでしょうか? それは、私たちが信仰者なのに霊の成長を求めていないからです。

ヘブ5:12あなたがたは、今ではもうすでにほかの人々を教えるようになっているべきであるのに、実際に

   は、【神のみことばの第一原則(霊的真理)*】をもう一度だれかに教えもらう必要があるのです。

   そしてあなたがたは堅い食物ではなく、乳を(かみ砕かれた教えとして)必要とするようになってき

   ています。

【NKJV】Heb
 5:12 For though by this time you ought to be teachers, you need someone to teach you

      again 【the first principles of the oracles of God】; and you have come to need milk

      and not solid food. *英語欽定版聖書:神の権威ある神託の第一とすべき原理・原則】)。

  聖句引用は、 詳訳聖書  いのちのことば社 © The Lockman Foundation 1962

         英語欽定訳聖書  NEW KING JAMES VERSION, © 1982, Thomas Nelson, Inc. 

         新改訳聖書第2版、 © 1970、1978、2003新日本聖書刊行会             

  

 クリスチャンの霊的成長とは、被創造者である人間を《神様はどう見ているのかの「霊的視点」》で、⇒ 自分の霊的立場を「自己認識し直す」ことです。

 その知識による信仰告白(自意識)によって、神様との「霊の繋がり」が確信となります。

 

 神様とクリスチャンとの、「霊的関係性」がどんなものであるのか、[霊性を判断基準」として、神様・主イエスの期待値をお知らせします。

 イエス・キリストの「十字架による罪の赦しと贖い」は、キリスト教の福音としてに対する「霊の救いへの誘い」であり、全くその通り正しいものですが、言うなれば入門教理です。

 世界中の誰でもが知っている救霊定理ですが、その福音の霊性は初心者レベルなのです。

 

 何故なら、まず信じることの意義「罪の赦しと悔い改め」は、人間の側の知覚を告白しているだけであって、何故そうなの→ 神様との霊的関係性法的根拠の知識が伴っていないからです。

ヨハ14:6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わた

   しを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。( 信じる

   人が神様との親密な関係となるのが、キリスト教の到達点です。)

 キリスト教は、「天の父なる神様の元に到達する」のが、信仰であり又[救いの根拠」です。しかし「十字架とその結果」を信じているのなら、その手段はイエス・キリストに頼りすがるしか根拠がありません。

 この入信初期には正しい態度も、そのまま続けるなら[正しくなくなって]行きます。

 

 その原因は、入信以来ずっと「十字架と罪の赦し」ばかりを聞かされ続けていて、本来の救霊定理=「神の子とされる霊的立場と、その「血の契約の義務」の知識を持てないままだからです。

 この初歩的信仰が間違っていると言うのではなく、更なる成長の必要性を霊的原理としてお伝えするものです。つまり信仰に「神様からの法的保証を確保する論理性を持つことです。

 キリスト教の真理として、神様は「今のあなたそのままを受け入れてくださっています。しかしこのことは、あなたの信仰が「神の子として満足出来るレベルである」と、神様が認定・保証していることではありません。

​ この霊性認識を、キリスト教自体が勘違いしているようです。殆どのクリスチャンの実態レベルだからです。

「信じる」こと の中身。

 神様は人に自由意志を与えているので、その人が《 何を正しいとして信じるのか》に干渉しません。そして信仰の内容についても、その人が「(実現すると)信じているところまでを限界として=受ける祝福の質量レベル」と決めて、その人に対応して下さるのです。これが『信仰の原理』という、公正・公平な神様の絶対的ルールです。

 

 従って神様の約束として、「今のあなたがどうであっても、そのままのあなたを受け入れて下さる」という聖書の言葉は正しいのです。しかしこれは、入信の為の「招きのレベル」であって、この言葉にしがみついているなら、正に霊的幼児です。

 

 誰に対しても横並びに均等・平等な結果が、自動的に与えられるのではありません。

この意味は、「その人が受ける祝福(の限度)は、その人自身が信仰として信じているところまで。」ということであり、「人が自分から刷新を求め、霊の成長(神様との霊の緊密さ)を実現していかない限り、よりすぐれた祝福(求める結果)は得られない。」という、論理性が導きだされます。

 

 つまり「何を」自分の信仰の根拠にしているかが、「救いの第一原則」に適合していなければならないことです。

具体的には、イエス・キリストの「十字架の死による罪の贖い」を、「救いの根拠」だとしているなら、その霊的祝福は「罪の赦しに留まる」のであって、「聖霊の力を受けた神の子とされた者」にはなれません。

 イエス・キリストを主とする信仰とは、聖霊を受けてその神の義を駆使し、奇跡を体現する勝利者である(み言葉を証明する)ことであり、それを栄光として神様に捧げることです。

​それを聖書は、「キリストの身丈にまで成長しなさい。」と書いています。

 ですからここでは、イエス・キリストに「頼りすがる」初心者レベルから成長することを目的に論じています。霊的初歩を卒業して、神の子としての自主性を獲得する、「自己認識の跳躍」の手段をお知らせします。

 より優れた祝福を実現して頂きたいからですが、受け入れるのも受け入れないのも、一人一人の自由意志のままを神様は許容しています。

 それが「そのままのあなた」の原理でありながら、成長に努力するクリスチャンがより多く祝福される、救霊の方程式です。

詳約聖書「ヘブル人への手紙」

ヘブ6:1ですから、私たちは、キリスト〈メシヤ〉の教え〈教理〉の初歩の段階(十字架の

   贖い)をあとにして前進し、霊的成熟という面で完全〈完成〉を目ざして着実に進もう

   ではありませんか。(()内は当会注釈です。)

 

 神様が定めた「救いの法則」のうち、「たった一つを信じきっていないことによって、キリスト教の分厚い、旧約・新約聖書を「矛盾がある。誤謬がある。」と解釈する方々が、たいへん多いのですが、《人を祝福したい》とする神様の意志を、「判断の定規」として聖書を読むなら、そこには「矛盾や誤謬」は無く、《確かな約束として信頼出来る純福音》であることが納得できます。

 それは読者が[義の論理性]によって、矛盾や誤謬と感じる解釈を否定できるからです。

 そしてその知識によって、「聖霊を受けて天の権威[イエスの名]を行使する者]となり、その結果を栄光として神様にかえすことで、神様・主イエスから「義と認められる」のです。 その「」とはなんでしょうか? 最早「罪の赦し」云々ではありません。

 

 キリスト教の「義」とは、あなたの信仰の根拠として、《神様との霊の関係性が確立していること》であり、その堅固さ(度合い)はあなた自身の信仰レベルに比例します。(正しい神認識によって、あなたが造り出すものと言えます。)

 信仰の根拠として、イエス・キリストに頼りすがることが「聖化」の手段ではありません。次の霊の段階があります。

 そのお伝えしたい第1原則は、信じる者の「信仰の行い」とは、必ず神様が定めた救霊の定理(聖書の霊的指示)に従った忠実さを要求されていることです。

 表面的な信じ方(罪の赦しとすがりつく祈り)では初歩的信仰に留まり、神様との霊の関係性が不十分・不確実なので、聖書で約束された祝福を受け取り損ねる恐れが多分にあります。

 キリスト教は契約であると言われていますが、しかしその実質『血の契約による関係性』を信仰の根拠に据えていない為、多くの教会、又、信者の方々は、[イエス・キリストに頼りすがる]のを信仰と捉え、そのように告白・行動しています。

 

 しかし神様が定めた「救霊の手段」は確かに契約なのであって、その契約を有効とさせる為の条件として、神様は「人の霊の立場」を《対等であるようにしなければならず》、罪が無いこと人の義を3段階に対応しています。

 そしてその段階ごとに、神様がクリスチャンに要求する霊性はより厳密になって来ます。

入信時の「そのままのあなた」から、キリストの身丈を目標に成長することを要求されているのです。自己認識そのものが「刷新されなければ」なりません。

 この神様の計画実行の要が、「イエス・キリストの」です。(イエス・キリスト以前の旧約聖書時代は、人の霊は「アダムの原罪の咎」を負わされ、サタンの支配下に置かれていました。しかしキリストがその原罪を取り除きました。)

 

 生物科学的には、人が神様と対等な訳がありません。しかし神様は仲保者イエス・キリストによって、《人の霊を対等に扱って下さるのです。この真理を見失ってはなりません。

 アダムを創造した時点で、「神の息が吹き込まれた」のだから、[霊において対等になれる(してくださる)]と論理的に認識してください。

--神様が企画・実行している「救霊の真理(新約時代の血の契約の対等性)」を、被創造者である人間が霊の基準によらず、「批判したり、受け入れない」のは、神様に逆らうことです。←→ 旧約時代の「神のしもべ」意識から脱却してください。

 キリスト教信仰は、神様と信じる者との「霊の関係性の構築」であり、その関係性の密度]を、自らの信仰の根拠にしなければなりません。その為には、霊的知識を学びとる必要があります。知らないことは求めようにも思い至らず、実行も出来ないからです。

その最も親密な関係性が「血の契約」なのです

 聖書解説書『パウロの目からうろこ』第1巻~第9巻を頒布しています。

 

​ 聖書に書かれた説話の多くが、読み違いされて「的外れ」の教理解釈になっています。それは神様・主イエスを正しく理解していないことなので、霊的には「不義の立場」です。

 この危険性を認識して頂きたく、キリスト教の「救いの真理・聖化」を、聖書から「神様の意志として」説き明かす図書を刊行しております。

当会は、旧統一教会、エホバの証人、モルモン教その他などの異端の教えや、暗示による霊感商法団体など、いかなるカルト洗脳集団とも一切関係ありません。

販 売

 現時点では、「パウロの目からウロコシリーズ9巻」は、全国のキリスト教書店,一般書店ではご購入出来ません。当会への直接ご注文でお届けいたします。

 オンラインショップのクレジットカード決済をご利用ください。

 お問い合わせ、特別なご注文などの場合、メールで受け付けておりますのでお申し込みください。

 

 セオロジークライスト会

代表者   ソルティー 新谷 徳雄   あらたに のりお

所 在 地 埼玉県鶴ヶ島市上広谷142---128 (〒3502203

ドメイン  http://www.theology-christ.com/

e-mail     xr454885@yb3.so-net.ne.jp

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